国枝史郎「沙漠の古都」(36) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(36)

        三十六

 ある天気のよい日であったが、彼はその時小屋を出て小丘の上に坐っていた。
 突然前方の森林の中から鳥獣の悲鳴が聞こえたが、それと一緒に藪地《ジャングル》を分けて虎が一匹走り出した。その虎の跡を追っかけて同じ藪地《ジャングル》から出て来たのは――思いもよらない有尾人猿で、それと知った彼の驚きは形容することも出来なかった。彼はやにわに飛び上がり、その人猿に向かって行った。鋭い咆哮! 烈しい叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]! ……さしもの人猿もジョンソンのために胸を蹴られて転がった。
 こういう出来事があってから数日経過したある日のこと、いつも小屋にいたジョンソンの姿がどこへ行ったものか見えなくなった。そしてジョンソンと慣れ親しんでいた無数の鳥獣を悲しませた。
 既にこの時は、ジョンソンは、生け捕った人猿を案内にして原始林と湖水とで飾られた太古のままなる神仙境へ足を踏み入れた時であった。
 幾年か幾年か時が経った。
 巴里《パリ》や倫敦《ロンドン》では幾万の人がこの世から死にまた産まれた。……
 もちろん、蕃地の南洋でも、鳳梨《あななす》の実が幾度か熟し無花果《いちじく》の花が幾度か散った。そして老年の麝香猫や怪我をした鰐が死んだりした。
 幾度か年は過ぎ去った。青年も老人になる頃である。金髪も白髪となる頃である。若い英国の動物学者がボルネオの奥地へ小屋を造って、鳥や獣を相手にして自由の生活をしていた時から既に三十年も経っていた。それでもやっぱり護謨の樹の上には木で造った小屋が立っていた。
 ……この頃、湖水と原始林とで美しく飾られた神仙境――すなわち人猿の住居地《すみか》には、有尾人以外に老人が――紛れもない欧羅巴《ヨーロッパ》の人間があたかも人猿の王かのように彼らの群に奉仕されて、いとも平和に住んでいた。
 岩窟の内は暗かった。獣油で造った蝋燭《ろうそく》が一本幽かに燈もっていて私達二人と老人とをほのかに照らしているばかりで、戸外《そと》から射し込む陽光《ひのひかり》はここまでは届いて来なかった。
 私とそしてダンチョンとは有尾人猿の王だという不思議な老人の捕虜となって岩窟の中へ連れて来られ、老人の伝奇的の経歴を老人の口から聞かされてどんなに不思議に思ったろう。しかし私達は疲労《つか》れていた。それで老人の話の間にいつか昏々《すやすや》と眠ったらしい。
 やがてようやく目覚めた時には翌日の真昼になっていた。私達は老人の許しを得て岩窟の外へ出る事にした。
 日光の洪水! 青葉の輝き! そして紺青の湖の底の知れない深い色! それらの色彩に眩惑されて私達はしばらく佇んだ。藪地の中から聞こえるものは人猿達の声である。それさえ今日は穏しい人間の声のように思われる。
 私達二人は湖岸へ行ってそこでまたもや彳んだ。
「神秘の湖水! 神秘の湖水!」
 私は思わずこう呟いてダンチョンの顔を見返った。「そうだ」とダンチョンも呟いて私の顔を見返した。
「私達二人が真っ先に神秘の湖水を見付けたのだ。だから今度は真っ先に湖底を探る権利がある……羅布《ロブ》人の宝庫、巨億の宝が底に隠されてある筈だ」
 ダンチョンの声は感激のために弓の絃《つる》のように戦慄した。私はそれを手で制して無言で湖水を見守っていた。その時、眼前の湖水の水が左右に山のように盛り上がり見る見る崩れたその中から丘のようなものが現われた。と見て取った一瞬間、水中の丘から十間も離れた水藻の浮いている水面から水沫《しぶき》を颯《さっ》と上げながら空中にヒラヒラと閃めいたのは、蟒蛇《うわばみ》に似た顔である。
「雷龍《プロントザウルス》!」と私の口から驚異の声が飛び出した。
 その時ダンチョンは遙か向こうの森林を指で差しながら、
「大きな蜥蜴《とかげ》が飛んでいる!」
 と恐怖に充ちた声で云った。
 全く彼の云う通り、二十尺もある大蜥蜴[#「大蜥蜴」は底本では「大蜥蝪」]が肩に付いた翼を羽搏きながら木から木へ龍のように飛んでいる。そしてその側の藪を分けて、豺《さい》と象とを合わせたような八、九間もある動物が二本の角を振り立て振り立て野性の鼠を追っかけている。それは確かに恐龍である。雷龍といいまた恐龍と云いいずれも今から数十万年前、地球に住んでいた動物で、それは人猿と同じように数十万年前のその昔に悉《ことごと》く滅びた筈である。それだのに人猿と相伴なってボルネオの奥地に棲息し二十世紀の今日まで生存《いきながら》えていようとは正に世界の驚異である。
 私とダンチョンとはこの驚異にすっかり魂を怯かされて湖水の岸から逃げ出した。
 そして岩窟《いわや》へ帰ったのである。



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