国枝史郎「沙漠の古都」(37) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(37)

        三十七

 猛悪の人猿の社会にも幾個かの不文律が行われていた。自分の所有でない雌性《めす》に対しては決して乱暴をしない事。人猿以外の敵に対しては一同団結して対《むか》うこと、食物は一時に貪らず一ヵ所に集めて貯える事……これらが主なるものであった。この不文律の執行者が彼らの王たる老人で、老人の課する刑罰をば人猿どもは怯じ怖れた。
 人猿達の生活は極端に自由で快活であった。彼らは木の上で生活しまた木の上で睡眠《ねむり》を取りそして木を渡って遊戯した。彼らの日常の食物は木《こ》の実《み》、草の根、鳥獣などで、彼らは勤勉によく働いて沢山の食物を漁るのであった。湖水を中心に原始林は十里四方に拡がっていたが十里四方の大森林こそ人猿達の王国であった。彼らは広大のこの森林で数十万年の昔から数十万年後の今日まで、子を産み、育て、繁殖し、ダーイニズムより超越して、原始的生活の範疇《はんちゅう》内でその生活を存続し、今日にまで至ったのであった。それにしてもどうして長く逞《たくま》しい尻尾を持っているのだろう? それは格別不思議でもない。恐らくは彼らはあの尻尾を数十万年の昔から数十万年後の今日まで、盛んに使用して来たのだろう。そのため尻尾があのように立派に発達したのであろう。利用即発達の大真理が、ここで用立った訳である。
 ある日、私とダンチョンとは森林の中を彷徨《さまよ》っていた。私達の跡を追いながら沢山の人猿が木を渡っていつまでもいつまでも従《つ》いて来た。森林の案内に通じていない私達を警戒するのでもあろう時々私達の先へ立って、方角を指で差したりした。行くに従って森林は益※[#二の字点、1-2-22]厚く繁茂して陽光《ひのひかり》さえ通らない。私達の足音に驚いて狐や兎が逃げ出したり、臭猫《くさねこ》が茨を潜りながら狐猿《レムール》の隠れた同じ穴へ周章《あわ》てふためいて飛び込んだり、群れて遊んでいた手長猿が一度にギャッと叫びながら枝から枝へ遁がれたりした。
 不意に私達の面前へ大猩々《ゴリラ》が姿を現わした時には恐怖のために足を止めた。しかし危険はちっともない。人猿が[#「ちっともない。人猿が」は底本では「ちっともない人猿が」]私達を守っている……はたして私達の頭上からヒラヒラとちょうど蝙蝠《こうもり》のように人猿達が下りて来た。そして悲壮な格闘が大猩々との間に行われたが、ものの十分も経たないうちにゴリラは三つに引き千切られた。
 森林が開けて陽が射している大きな沼へ来た時にまたも私達は前世紀の怪獣の一つに遭《ゆきあ》った。十間もあるらしい長身の背中一面に角の生えた尾と頸の長い動物で、その尾と後脚とを利用して立ったままヨチヨチ歩いている。私達の姿を見付けるや否や一躍して水中へ飛び込んだがそのまま姿は見えなくなった。私達二人は沼の岸を静かに歩いて進んで行った。キキ! キキと木の梢で悲しそうな声で鳴くものがあるので何気なく仰いで梢を見た。眼玉の飛び出た鰭《ひれ》の長い八尺あまりの鯊《はぜ》のような魚が鰭《ひれ》で木の幹を攀《よ》じながら悲しそうに鳴いているのであった。
 私達は尚も彷徨《さまよ》って行った。鰐の住む濁った河を渉り鴨嘴《かものはし》の群れている湿地を越えて足に任せて彷徨った。
 またも森林が途絶えて、前方遙かに砂丘が見え、熱帯の太陽が赧々《あかあか》と光の洪水を漲らせている何んとなく神々しい別天地が私達の前へ展開した。
 光の洪水に洗礼されたその前方の砂丘の上には一個の祠《ほこら》が安置されてあってあたかもそれを守るかのように石で刻まれた狛犬が、肩に焔を纒いながら祠の前に坐っている――その光景を眺めた時、私は卒然と羅布《ロブ》の沙漠の緑地《オアシス》で見た同じ祠を頭の中に描き出した。
「おお何んと同一ではあるまいか! ……ロブの沙漠のあの祠《ほこら》とボルネオの奥地のこの祠《ほこら》とは!」
 私は感激に胸を顫わせ釘付けのように突っ立ったままじっと祠を眺めていた。すると私のこの感激を一層高潮に誘うような不思議な事件が突発した。それは、今まで梢の上で私達を守っていた人猿達が、祠の姿を見るや否やバラバラと梢から飛び下りて人間のようにひざまずいて祠を遙拝することであった。
 ああその熱心さと敬虔《けいけん》さとは何んに例《たと》えたらよいだろう? 古代、仏教の信者達が仏陀の尊像を堅く信じて祈願をこめた熱心さと敬虔さとに例えようか。それにしてもどうして人猿達が遙拝の仕方などを知っているのであろう? 誰か彼らに教えたのか。それとも、自然に覚えたのか。そしていったいあの祠には何が祭ってあるのだろう! 彼らの神か? 宝物か? そして大きなあの丘はただ砂の堆積《つも》ったものだろうか? それとも何かがあの丘の中に隠されてあるのではあるまいか?
「神秘! 神秘! 要するに神秘! 湖水と同じくただ神秘!」
 私は心で呟いて四辺の様子を見廻した。すると私はこの辺一体――もちろん砂丘も引っ包《くる》めて土地の低いのに気が付いた。



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