国枝史郎「沙漠の古都」(40) (さばくのこと)

国枝史郎「沙漠の古都」(40)

        四十

 今までは小さな漣さえなかった碧玉の湖水が白泡を浮かべて奔馬のように狂っている。そして不思議にも湖上の水は巨大な渦巻を形造って湖心を中心にして廻っている。私達の船はその渦巻の一番外側の輪の中にあった。船はその輪の水勢に連れて湖岸に添うて走って行く。
 船が走るに従って岸上の土人軍は驚嘆の声を口々に鋭く叫びながら船の後から追っかけた。しかし水勢には及びもつかず見る見る船と彼らとの距離は遠く遠く隔った。
 湖水を一周した頃には船は渦巻の第二の輪をいくらか渦巻の中心の方へ傾きながら走っていた。私達はあらゆる努力をして渦巻の外へ出ようとしたが、蟻地獄へ落ちた蟻のようにどうすることも出来なかった。船は岸上に屯ろしている土人軍の前を過ぎようとした。その時土人達は口々に叫んで棕櫚縄を一筋投げてくれたが船首をわずかに掠めたばかりで空しく水中へ落ちてしまった。いつか私達は渦巻の輪の第三番目にはいっていた。水は輪なりに走りながら時々高く盛り上がり次の瞬間には波を立てて低く落ち窪んだ。私達の船が波に乗って高く空中へ盛り上がった時、私は素早く眼をやって渦巻の中心を見たのであった。その辺一体は白泡に閉ざされ数千の白馬が鬣《たてがみ》を振って踊りを躍っているように見えたが、その白泡の真ん中所に直径半町もあろうかと思われる蒼黒い穴が開いていて、湖中の水はそこを目掛けてただ直向《ひたむ》きに押し寄せていた。穴はあたかも漏斗《じょうご》のように円錐形を呈していて、落ち込む水がそこへはいる滝のようにすぐに落下せずにやはり漏斗形に廻り廻って静かに地底へ潜《くぐ》るのであった。
 私は船が波の頂きに一瞬間とどまっている時にこれだけのことを見て取ったので、波が崩れて谷が開けその水の谷へ真一文字に私達の船が突き入った時にはもう水穴は見えなくなった。
 この間も船は水穴を目掛けて刻々に進む水勢に引かれて湖水をグルグル廻っている。
 何気なく岸の方を眺めて見ると遙か彼方に断崖のように赭黒い色をして聳えている。いつもは岸に擦れ擦れになって湖水の水が湛えているのに、今は一丈余の断崖となって森林を背負って立っている。つまりそれだけ湖水の水が地下に吸い込まれてしまったのである。
 こうして私達はどれほどの時間湖水の面に漂っていたか考えて見ることも出来なかったが、とうとう船が渦に巻かれて湖心に出来ている水穴の中へ正に落ち込もうとした時に、天佑とでも云うのであろうか、忽然と水穴が閉ざされ大渦巻が運動を止め湖面は再び鏡のように日光を吸って輝き出した。
 私達は初めて元気付いて力を極めて船を漕いだ。そして土人軍の屯ろしている湖水の岸へよじ[#「よじ」に傍点]登った時、蘇生したような気持ちがした。
 湖水の水はその容積の三分の二余りを減じていた。水草が水面に旗のように流れ、幾匹かの恐龍と雷龍とが巨大の首を水から出して私達の方を眺めている。水禽は一羽もいなかった。岸に近い水は森林を映し、岸に遠い水は空をひたしていとも平和に澄んでいる。
 あの素晴らしい渦巻の恐ろしかった光景はどこを眺めても見当らない。水はいかにも減じてはいるが、太古のままの夢を孕《はら》んで森然《しん》と静まり湛えている。
 私達は互いに眼を見合わせ一言も物を云わなかった。豪雄のラシイヌ探偵さえ空しく湖水を眺めるばかりで、陽に焼けて黒いその顔には驚異の情ばかりが浮かんでいる。
 こうして私達は湖水の岸にしばらくの間佇んでいた。
 その時、またも湖水の面に以前《まえ》と同じ奇蹟が行われた。湖心のあたりに蒼黒い穴が忽然と一つ現われたが、そこを目がけて湖中の水が渦巻きながら押し寄せて行く。
 何んという奇観! なんという壮大! 湖中に流されて眺めるのと湖岸に立って見渡すのと、こうまで相違があるものであろうか!
 ……見渡す眼下の湖水の水は何物にか引かれてでもいるかのように渦の外輪は大波を立て、渦の内輪は独楽《こま》のように澄み切った速さで廻っている……名も知らぬ畸形の海獣や巨大な水牛やトラコドンは、その渦巻に巻かれまいと水沫《しぶき》を立てて狂い廻りながらしかも水勢には争い難くやはり渦巻に巻かれたまま蒼黒い水穴――死の漏斗《じょうご》へ、一刻一刻近寄って行く、……死の水穴の縁のあたりには落ち込む水が斬り合って水蒸気の雲を濛々と立て陽に輝いて眼も眩むような鮮かな虹を懸けている……虹の花輪に飾られた蒼黒い漏斗、死の水穴は、落ち込む水をすぐ捉らえて、漏斗に入れられた酒や水が漏斗形にグルグル廻りながら下の容器《いれもの》にしたたるように捉えられた水は穴の内面を眼にも止まらぬ勢いで漏斗形に駸々《しんしん》と馳せ廻り、次第に下へ次第に下へグングン廻って落ちて行く……。



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