国枝史郎「猿ヶ京片耳伝説」(06) (さるがきょうかたみみでんせつ)

国枝史郎「猿ヶ京片耳伝説」(06)

    三国峠の権

「そうかい、俺を役者だというのかい」
 と男は溜息をしながら云った。頬冠りの顔は俯向いて、湯の面《おもて》に見入っていた。
「三国峠の権の真似《まね》上手だものね。お役者さんよ」
「どうして物真似だってこと解るんだい?」
「そりゃア眼力《め》だわ。……あたし客商売の温泉宿《ゆやど》の娘でしょう。ですから、悪い人かいい人か、贋物か本物かってこと一眼見ればわかるわ」
「なるほどなア、それで俺《おい》らを……」
「いい人だと睨んだのよ。だってそうでしょう、女と一緒にお風呂にはいるの恥ずかしがったり、顔見られるの恥ずかしがって、頬冠り取らなかったりするあなたですものね。恥ずかしがり屋に悪人ってものないわ」
「恥ずかしがり屋に悪人はないとも。……だが俺《おい》ら恥ずかしがり屋かなア」
「あたしの眼に狂いないわ」
「それならいいが」
「フーッ。狂いないわ」
「俺《おい》らア初めてだ」
 と男はしみじみとした声で云った。
「冒頭《のっけ》から善人だと女に云われ、何んの疑がいもなくぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来られたなア、今夜のお蘭ちゃんが初めてだ。……礼云うぜ」
 烈しい呼笛《よびこ》の音がこの温泉宿《ゆやど》の表と裏とから聞こえ、遙かに離れている主屋の方から、大勢の者の詈しり声や悲鳴や、雨戸や障子の仆れる音が聞こえて来た。
「捕手《いぬ》どもとうとう猟立《かりた》てに来やがったな! ようし!」
 こう云った時にはもう男は湯槽から躍り上がっていた。
「おいお蘭ちゃん、済まないがお前の着物貰って行くぜ、……着物どころかお前の体も貰うつもりだったが、裸身《はだか》で――そうよ、心も体も綺麗な裸身でぶつかって来られたので、俺らにゃア手が出せなかった。……お前のためにも幸福《しあわせ》だったろうが、俺らにも幸福だった。将来《これから》は俺らは女だけは。……それもお前のおかげで女の観方《みかた》変わったからよ。世間にゃお蘭ちゃんのような女もあると思やアなア。……それにしても、俺らに最初《はな》にぶつかって[#「ぶつかって」に傍点]来た女が、お前のような女だったら、俺らこんな身の上にゃアならなかったんだが……」
 頬冠りを取り、手拭いで体を拭き拭き、
「それにしても進一さんて人は幸福《しあわせ》だなア、お蘭ちゃんのような可愛らしい人を嫁さんにするなんて。……おいお蘭ちゃん、俺らお前さんに餞別《はなむけ》するぜ。どうかまア今のような綺麗な裸体《はだか》の心で、進一さんに尽くしてくんなと。……男なんてもなア女のやり方一つで、どうにでもなるんだからなあ」
 男は手早くお蘭の着物を纒《まと》った。
「アッハッハッ、この風で捕手《いぬ》どもの眼を眩《くらま》しとっ[#「とっ」に傍点]走るのよ! ……おかげで湯にもはいれた。……心と一緒に体も綺麗になったってものさ」
 お蘭は驚愕した大きな眼で男の顔を見詰め、
「あ、あんたの耳! ないわないわ、一つしかないわ!」
 男はこの時もう階段を上がっていたが、振り返ると云った。
「三国峠の権は片耳なのだよ」

 三国峠の権が女装をし頬冠りをして湯殿から飛び出し、廊下づたいに主屋の方へ走り出した時には、沼田藩の捕り手たち数十人が、この温泉宿《ゆやど》へ混み入って、部屋部屋を探し廻っていた。上野《こうずけ》、下野《しもつけ》、武蔵《むさし》、常陸《ひたち》、安房《あわ》、上総《かずさ》、下総《しもうさ》、相模《さがみ》と股にかけ、ある時は一人で、ある時は数十人の眷属《けんぞく》と共に、強盗《おしこみ》、放火《ひつけ》、殺人《ひとごろし》の兇行を演じて来た、武士あがりのこの大盗が、破牢して逃げたということだけでも、沼田藩は、捕り手組子を押し出して捕縛に大わらわにならなければならないのであったが、そればかりでなく、三国峠の権は、破牢するとその夜、藩の蔵奉行五百枝将左衛門の屋敷へ押し入り、主人将左衛門の片耳を切り落とし、「汝の娘、松乃《まつの》の嫁入り先、長岡の牧野家の槍奉行、坂田方へ押し入り、松乃の片耳を切り取るぞよ」と威嚇して立ち去ったのであった。一藩が震駭《しんがい》し、数十人の捕り手を繰り出し、逃げ込み先の猿ヶ京の温泉《いでゆ》をおっとり囲んだのは当然といえよう。
 権は今廊下を走って行く。と、行く手に四、五人の捕り方が現われた。権は素早く廊下添いの部屋の襖を開けて飛び込んだ。
「それ」
 と捕り方たちは走って来た。襖をあけて覗くと、若い女が俯伏しに寝て、両袖で顔をかくしていた。
「女だ」
「恐いことはないぞ。アッハッハ」
 と、捕り方たちは走り去った。権はしばらくじっ[#「じっ」に傍点]としていたが、やがて起き上がると廊下へ出、主屋の方へ小走り出した。廊下が丁字形になっている所へ来た。左へ曲がったとたん、二人の捕り方にぶつ[#「ぶつ」に傍点]かった。顔を見られた。





[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送