国枝史郎「三甚内」(02) (さんじんない)

国枝史郎「三甚内」(02)

        二

「なんのなんのその斟酌《しんしゃく》、どうでものした[#「ものした」に傍点]他人《ひと》の金だ」
「いかさまそれには違えねえ、では遠慮なく頂戴といくか」
「さあ」
 と云って投げた小判は、初雪白い地へ落ちた。
「ええ何をする勿体《もってえ》ねえ」
 男は屈んで拾おうとした。そこを狙って片手の抜き打ち。その太刀風の鋭さ凄さ。起きも開きも出来なかったかがばとそのままのめった[#「のめった」に傍点]が、雪を掬《すく》って颯《さっ》と掛けた。これぞ早速の眼潰しである。
 武士は初太刀を為損《しそん》じて心いささか周章《あわ》てたと見え備えも直さず第二の太刀を薙《な》がず払わず突いて出た。
「どっこい、あぶねえ」
 と、頬冠りの男は、この時半身起きかかっていたが、思わず反《そ》り返った一刹那、足を外ずしてツルリと辷った。
 して[#「して」に傍点]やったりと大上段、武士は入り身に切り込んだ。と、一髪のその間にピューッと草履を投げ付けた。束《つか》で払って地に落とし、追い逼る間にもう一個を、またも発止と投げ付ける。それが武士の額に当たった。
「フーッ」
 と我知らず呼吸《いき》を吹く。その間にパッと飛び立った男は右手を懐中《ふところ》へ突っ込むと初めて匕首《あいくち》を抜いたものである。
「さあ来やあがれこん畜生!」――こう罵った声の下からハッハッハッと大息を吐くのは体の疲労《つか》れた証拠である。しかも彼は罵りつづける。
「……おおかたこうだろうとは思っていたが騙《だま》し討ちとは卑怯な奴だ。俺で幸い他の者なら、とうに初太刀でやられる[#「やられる」に傍点]ところだ。……さてどこからでも掛かって来い! 背後《うしろ》を見せる俺じゃねえ。おや、こん畜生黙っているな。何んとか云いねえ気味の悪い野郎だ」
 云い云いジリジリと付け廻す。相手の武士は片身青眼にぴたり[#「ぴたり」に傍点]と付けたまま動こうともしない。
 しかし不動のその姿からは形容に絶した一道の殺気が鬱々《うつうつ》として迸《ほとば》しっている。どだい[#「どだい」に傍点]武道から云う時はまるで勝負にはならないのであった。武士の剣技の精妙さは眼を驚かすばかりであって名人の域には達しないにしても上手の域は踏み越えている。絶えず左手は遊ばして置いて右手ばかりを使うのであるが、それはどうやら円明流らしい。空掛け声は預けて置いて肉を切らせて骨を切るという実質一方の構えである。
 相手の男はそれに反してまるで剣術など知らないらしい。身の軽いを取り柄にしてただ翩翻[#「翩翻」は底本では「翻翩」]《へんぽん》と飛び廻るばかり[#「ばかり」は底本では「だかり」]だ。ただし真剣白刃勝負の、場数はのべつ[#「のべつ」に傍点]に踏んでいるらしい。その証拠には勝ち目のないこの土段場に臨んでもびく[#「びく」に傍点]ともしない度胸で解る。
 じっと[#「じっと」に傍点]二人は睨み合っている。
 初太刀の袈裟掛け、二度目の突き、三度目の真っ向拝み打ち、それが皆《みんな》外されたので武士は心中驚いていた。
「世間には素早い奴があるな。それにやり方が無茶苦茶だ。喧嘩の呼吸《いき》で来られては見当が付かず扱かいにくい。草履を眉見に投げ付けられたでは俺の縹緻《きりょう》も下がったな。……不愍《ふびん》ながら今度は遁がさぬぞ」
 独言《ひとりご》ちながらつと[#「つと」に傍点]進んだ。相変わらず左手は遊ばせている。
「へ、畜生、おいでなすったな」
 此方《こなた》、男は握った匕首《あいくち》を故意《わざ》と背中へ廻しながら、ひょいと[#「ひょいと」に傍点]一足退いた。
「いめえましい三ぴんだ。隙ってものを見せやがらねえ。やい! 一思いに切ってかからねえか!」
「えい!」
 と初めて声を掛け、右手寄りにツツ――と詰める。
「わっ、来やがった、あぶねえあぶねえ」
 これは左手へタタタと逃げる。逃がしもあえず踏み込んだが同時に左手が小刀へ掛かると掬い切りに胴へはいった。血煙り立てて斃《たお》れたか! 非ず、そこに横たわっていた老人の死骸へ躓《つまず》いて頬冠りの男は転がったのである。
「まだか!」と武士は気を焦《いら》ち右剣を延ばして切り下ろした、溺れる者は藁《わら》をも握《つか》む。紙一枚の際《きわ》どい隙に金剛力を手に集め寝ながら抱き起こした老人の死骸。すなわち楯となったのである。
「えい、邪魔だ!」
 と足を上げ武士は死骸をポンと蹴る。二つばかり転がったが、ゴロゴロと河岸の石崖伝い河の中へ落ちて行った。パッと立つ水煙り。底へ沈むらしい水の音。……その間に男は起き上がると二間余りも飛び退ったが、手には印籠を握っている。倒れながら拾った印籠である。
 その時であったが水の上から欠伸《あくび》する声が聞こえて来た。続いて吹殻《ほこ》を払う煙管《きせる》の音。驚いた武士が首を延ばして河の中を見下ろすと、苫船《とまぶね》が一隻纜《もや》っている。とその苫が少し引かれて半身を現わした一人の船頭。じっと[#「じっと」に傍点]水面を隙かしているのは老人の死骸を探すらしい。
 とたんに寒月が雲を割り蒼茫たる月光が流れたが、二人はハッと顔を見合わせた。船頭の頬には夜目にも著《しる》く古い太刀傷が印されている。





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