国枝史郎「三甚内」(03) (さんじんない)

国枝史郎「三甚内」(03)

        三

 寛永といえば三代将軍徳川家光の治世であったが、この頃三人の高名の賊が江戸市中を徘徊した。庄司甚内《しょうじじんない》、勾坂《こうさか》甚内、飛沢《とびさわ》甚内という三人である。姓は違っても名は同じくいずれも甚内と称したので、「寛永三甚内」とこう呼んで当時の人々は怖《お》じ恐れた。
 無論誇張はあるのであろうが「緑林黒白」という大盗伝には次のような事が記されてある。
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「庄司甚内というは同じ盗賊ながら日本を回国し、孝子孝女を探し、堂宮の廃《すた》れたるを起こし、剣鎗に一流を極わめ、忍術に妙を得、力量三十人に倍し、日に四十里を歩し、昼夜ねぶらざるに倦む事なし。
飛沢甚内というは同列の盗賊にして、剣術、柔術は不鍛錬なれど、早業に一流を極わめ、幅十間の荒沢を飛び越える事は鳥獣よりも身体軽《みがる》く、ゆえに自ら飛沢と号す。
勾坂甚内の生長は、甲州武田の長臣高坂弾正が子にして、幼名を甚太郎と号しけるに、程なく勝頼亡び真忠の士多く討ち死にし、または徳川の御手《みて》に属しけるみぎり甚太郎幼稚にして孤児となるを憐れみ、祖父高坂対島《つしま》甚太郎を具して摂州芥川に遁がれ閑居せし節、日本回国して宮本武蔵この家に止宿《とま》る。祖父の頼みにより甚太郎を弟子とし、その後武蔵武州江戸に下向し、神田お玉ヶ池附近に道場を構え剣術の指南もっぱらなり。ここに甚太郎は十一歳より随従して今年二十二歳、円明流の奥儀悉く伝授を得て実に武蔵が高弟となれり。これによりて活胴《いきどう》を試みたく、窃《ひそ》かに柳原の土手へ出で往来の者を一刀に殺害しけるが、ある夜飛脚を殺し、鉾《きっさき》の止まりたるを審《あやし》み、懐中を探れば金五十両を所持せり。これより悪行面白く、辻斬りして金子《きんす》を奪いぬ。その頃鎌倉河岸に風呂屋と称するもの十軒あり。湯女《ゆな》に似て色を売りぬ。この他江戸に一切売色の徒なし、甚太郎悪行して奪いし金銀みなここにて使い捨てぬ。この事師匠武蔵聞いて、破門し勘当しけり。これより諸国を遍歴し、武州高尾山に詣で、飯綱権現《いいずなごんげん》に祈誓して生涯の安泰を心願し、これより名を甚内と改め、相州平塚宿にしばらく足を止どめて盗賊の首領となり、後また豆州箱根山にかくれて、なお強盗の張本たり。
後再び江戸に入る。云々」
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 で、その勾坂甚内が二度目に江戸へはいって来た時から作者《わたし》の物語は展開するのである。

「箱根の山砦《さんさい》を手下に渡して江戸へ足を入れたというのも、江戸の様子が見たかったからだ。……ところで今俺は江戸にいる。が、別に嬉しくもない」
 赤坂溜他の浪宅で、剣道を弟子に教えたり、博徒と博奕《ばくち》を開帳したり、飯より好きな辻斬りをしたり、よりより集まって来た旧手下どもと大名屋敷へ忍び込みお納戸金を奪ったり、あらゆる悪行を働きながらも彼は満足しないと見えて、こんな嘆息を洩らすのであった。
「いや昔は面白かった。それに立派な稼ぎ人もいた。庄司甚内、飛沢甚内、俺を加えて三甚内よ。江戸中の心胆を寒からせたものだ。ところがそれから五年経った今日この頃はどうかというに、目星い稼ぎ人は影さえもない」
 などと不平を云ったりした。
「そうは云っても五年前よりよくなったことも若干《いくら》かはある。散在していた風呂屋女を吉原の土地へ一つに集め、駿府の遊女町を持って来たなどは確かに面白い考えだ」
 こんなことを云いながら、その吉原の遊女屋へ、自身根気よく通うのであった。
 福岡の城主五十二万石、松平美濃守のお邸は霞ヶ関の高台にあったが、勾坂甚内は徒党を率い、新玉《あらたま》の年の寿《ことぶき》に酔い痴れている隙を窺い、金蔵を破って黄金《かね》を持ち出した。
「いや春先から景気がよいぞ。さあ分配金《わけまえ》をくれてやるから、どこへでも行って遊んで来い」
 手下どもを追いやってから、自分も重い財布を握り、いつもの癖の一人遊び、ブラリと吉原へやって来た。大門をはいれば中之町、取っ付きの左側が山田宗順の楼《ろう》、それと向かい合った高楼はこの遊廓の支配役庄司甚右衛門の楼《いえ》である。
 遊里の松の内と来たひにはその賑やかさ沙汰の限りである。その時分から千客万来、どの楼《いえ》も大入叶《おおいりかな》うである。
 庄司の姓も懐しく甚右衛門の甚にも心を引かれ、勾坂甚内はずっと以前《まえ》から甚右衛門の楼の馴染《なじみ》とし、この里へ来るごとに立ち寄っていたが、心中では一度甚右衛門に逢って見たいと思っていた。
「庄司甚内と庄司甚右衛門。どうも非常に似ている名前だ。と云って泥棒の庄司甚内が足を洗って遊女屋になり廓中支配役になるようなことは絶対にあるべき筈はないし、もしまたそれがあったにしても、自分は賊であった庄司甚内をかつて一度も見たことがないから、たとえ顔を合わせたところでそれと知ることは出来そうもない」――勾坂甚内はこう思いながらも折りがあったら逢って見たいとやはり思ってはいるのであった。





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