国枝史郎「神秘昆虫館」(06) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(6)

  6

 その日からちょうど五日経った。
 三浦三崎の君江の家、その屋号を角屋と云って、立派な構えの旅龍屋である。その門口からフラリと出たのは、他ならぬ一式小一郎で、口先に微笑を漂わせている。
「君江という娘、嘘は云わなかった。まさしく家は旅籠屋で、両親もピンピン健康でいる。そうして俺には親切だ。親切といえばあの君江、ほんとに俺を愛しているらしい。ちと困ったが迷惑でもない。明るくて快活でわだかまりがない。たしかに野に咲いた一輪の名花さ。そうは云ってもこの俺には、他に愛する女がある。姿形はまだ見ないが、小梅田圃の切り合いの最中、声だけ聞いたあの女だ。是非々々探しあてて逢って見たいものだ。……それはそれとしてその君江、大池のあるという森林の中へ、何故この俺を行かせないのだろう?」
 立ち止まって四辺《あたり》を見廻した。冬ざれた半農半漁の村が、一筋寂しく横仆《よこた》わっている。それを越すと耕地である。耕地の向こうが大森林で、槍や杉の喬木が、澄み切った空を摩している。
 ヒョイと何気なく振り返って見た。「はてな?」と云ったのはどうしたのだろう? 十五六人の侍が、いずれも立派な旅姿で、スタスタとこっちへ来るからであった。
「こんなに辺都な関宿などへ、ああもたくさんの侍が、入り込んで来るとは只事ではない。おかしいなあ」と呟いたが、物陰へ隠れて窺った。
 それとも知らぬか侍達は、ガヤガヤ話しながら通り過ぎる。
「まずはともかくも森林へな! 昆虫館があるかも知れぬ」こう云ったのは頬髯のある武士で、「なかったら今度は伊豆の方へ行こう」
「いわば我々は先乗りで、探りさえすればいいというものさ」こう云ったのは段鼻の武士。
「永生の蝶! 永生の蝶! はたしてそんな[#「そんな」に傍点]物ありましょうかな」こう云ったのは赤痣のある武士。
「昆虫館も永生の蝶も、拙者には用はござらぬよ。小梅田圃で耳にした、美しい涼しい声の主、それに是非とも巡り会いたいもので」
 こう云ったのは誰あろう、恋仇《こいがたき》南部集五郎であった。
 タッタッと森林の方へ行ってしまった。
 物陰から出た小一郎は仰天せざるを得なかった。
「一ッ橋家の武士どもだな! 一ッ橋殿の命を受け、昆虫館を探しあてようと、さてこそやって来たらしい。……憎いは南部集五郎だ、またもや俺の恋仇となった。あの時耳にした声の主を、昆虫館の関係者と、彼奴《きゃつ》も目星を付けたらしい。……これはこうしてはいられない。誰が止めようと森林へ分け入り、彼奴らより先に声の主を、目つけ出さなければ心が済まぬ」
 彼らの後を追うように、サ――ッと小一郎は走り出したが、その時角屋の門口から、ヒョイと一人の娘が出た。
「あれ!」と叫んだが君江であった。「お父様大変でございます!」
「どうした?」と云いながら現われたのは、五十年輩の立派な人物で、英五郎と云って君江の父、この辺り一帯の顔役で、髪は半白、下膨れの垂れ頬、柔和の容貌ではあるけれど、眼附きに敢為の気象が見える。
「小一郎様が森の中へ!」
「おお行かれたか! 困ったなあ」
「お父さま! お父さま! どうともして‥…」
「さあはたして助けられるかな!」
「ああ小一郎様のお身の上に、もしものことがあろうものなら……死んでしまいます! 死んでしまいます!」
「よし!」と英五郎は決心した。「ともかくも乾児《こぶん》を猟り集め、森中手を分けて探してみよう! ……しかし名に負う木精《こだま》の森だ、入り込んだが最後出られない魔所! 目つかってくれればいいがなあ」
 木精の森の底の辺りに、一つの岩が聳えていた。裾から泉が湧き出している。
 側で話している二人の男女があった。一人は 臈《ろう》たけた[#「たけた」に傍点]二十歳《はたち》ばかりの美女で、一人は片足の醜男である。
「先生には今日もご不機嫌で?」こう訊いたのは片足の醜男。
「吉や、困ったよ、この頃は、いつもお父様には不幾嫌でねえ」こう云ったのは美女である。
「それというのも大切な雄蝶を、お盗まれになってからでございましょうね」片足の男の名は吉次《きちじ》であり、そうして美女の名は桔梗《ききょう》様であり、その関係は主従らしい。



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