国枝史郎「神秘昆虫館」(08) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(8)

  8

 帽子を洩れた白髪の、何と美しいことだろう。肩に屯《たむろ》して泡立っている。広い額、窪んだ眼窩、その奥で輝いている霊智的の眼! まさしく碩学に相違ない。極めて高尚な高い鼻、日本人に珍らしい希臘《ギリシャ》型である。意志! 強いぞ! と云うように、少し厚手の唇を洩れ、時々見える歯並びのよさ、老人などとは思われない。角張った頤も意志的である。顔色は赧く小皺などはない。身長《みたけ》高く肉附きよく、腰もピーンと延びている。永らく欧羅巴《ヨーロッパ》に住んでいたが、最近帰朝した日本人――と云ったような俤がある。非常な苦痛を持っていながら、強い意志力で抑え付け、わざと愉快そうに振舞っている。――と云ったような態度がある。
「ここか、桔梗、吉次もいたか。俺はな、やっぱり諦めようと思う」岩の一所へ腰をかけ、こんな調子に話し出した。「なくなったものなら仕方がないよ。随分手分けして探したが、目つからないのだから止むを得ない。それにさ」と云うとやや皮肉に、「雄蝶一匹を手に入れたところで、全く役に立たないばかりか、それを手に入れた人間は、かえって禍いを蒙るのだからなあ。それで恐らく吃驚《びっくり》して、逃がしてしまうに相違ないよ。逃がせば蝶は帰って来よう。ああそうだよ、この山へな。で、そいつを待つことにしよう。よしんば永久に帰らないにしても、後に残っている雌蝶をさえ、握っていれば大丈夫だよ。神秘の秘密は解けるものではない。とはいえもちろん心掛けて、絶えず捜索はするんだなあ。私の云いたいのはこうなのさ。なくなった雄蝶ばかりに心を取られ、雌蝶の方を疎かにしては、かえってよくないとこういうのさ。桔梗、お前はどう思うな?」頤鬚を撫したものである。
「これはごもっともに存じます」桔梗様の声は嬉しそうである。
「ようご決心が付きました。ほんとうにさようでございますとも。いずれは帰るでございましょう。待ちましょうねえお父様。……そうしてどうぞお父様には、以前《まえ》通りご機嫌のよいお父様となり、ご研究にお尽くしくださいまし」
「ああいいとも、そういうことにしよう。不磯嫌になったって仕方がない。なかなか浮世というものは、思うようにはならないんだからなア。で、私はこれまで通り、愉快な明るい人間となり、セッセと仕事をやろうと思うよ。吉次、お前はどう思うな?」
 すると吉次も安心したように、「まことに結構に存じます。先生に憂鬱になられましては、全く私どもがどうしてよいか、途方に暮れてしまいますので」
「アッハハハ、そうだろうて、主人の私が怒っていたでは、誰も彼も仕事がやりにくかろうて。よしよしこれからは快活にやろう。いつも明るく笑ってな」そこでもう一度笑ったが、取って付けたような笑い方であった。「さあさあ吉次、働け働け、行ってみんな[#「みんな」に傍点]を指図するがよい。ええと今日は温室の整理だ。ええとそれから孵卵器の取り付け、ええとそれから蜂の巣の製造、忙《せわ》しいぞ忙しいぞ随分忙しい……はてな?」
 と云うとどうしたものか、昆虫館主人は耳傾げた。何かを聞こうとするらしい。森林を渡る風の音、岩から滴る泉の音、何にも聞こえない、それ以外には……だが、どうやら昆虫館主人には、別の物音が聞こえるらしい。見る見る顔が険しくなり、気むずかしそうに眼が顰《ひそ》んだ。「どいつか来るな、邪魔をしに!」
「うるさいことでございますね」こう云ったのは桔梗様で、おなじように眼を顰めた。
「どっちの方角からでございます?」こう訊いたのは舌次である。
「麓の方からだ、関宿の方から」
「いつもの手段で追っ払いましょう」吉次は、松葉杖をポンと上げた。
「うむ、吉次、追っ払ってくれ!」
「ご免」と云うと走り出した。非常に敏捷な走り方である。二本足を持った人間より、ずっとずっと敏捷である。
「桔梗、部屋へ行って茶でも飲もう。……どうもうるさい[#「うるさい」に傍点]よ世間の連中、時々住居《すまい》を騒がせに来おる!」
「ほんとにうるそう[#「うるそう」に傍点]ございますねえ」
「じっくり研究さえさせてくれない。全く俗流という奴は、鼻持ちのならない厭な奴だ。好奇心ばかり強くてな。そうしてそいつの満足のためには、他人の迷惑など何とも思わない」
「参りましょうよ、お部屋へね」
 で、二人とも岩を巡り、奥の方へ姿を消してしまった。
 トコトコトコトコと泉の音が、微妙な音楽を奏している。小鳥の啼音《なくね》が聞こえてくる。冬陽が明るく射している。静かで清らかで平和である。
 だがこの平和を乱すべく、大乱闘の行なわれたのは、それから間もなくのことであった。



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