国枝史郎「神秘昆虫館」(09) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(9)

  9

 木精《こだま》の森を踏み分け踏み分け、一式小一郎は歩いている。
「一ッ橋家の武士達より、どうともして先に昆虫館を、目つけ出さなければ意地が立たない。だがどうにも歩きにくいなあ」
 喬木がすくすくと聳えている。枝葉が空を蔽うている。昼だというのに陽が射さない。四方《あたり》が宵のように薄暗い、灌木や蔓草が茂っている。それが歩く足を攫おうとする。巨大な仆《たお》れ木が横仆《よこた》わり、それがやっぱり足を止める。丘のような大岩が転がっている。所々に古池がある。突然飛び出したものがある。純白の兎の群である。サラサラと枝を渡るものがある。幾匹かの野生の猿である。カーッ、カーッと啼くものがある。鳥のようでもあれば獣のようでもある。季節は一月、所は大森林、凍りつくばかりに冷々《ひやひや》する。ヒューッ、ヒューッと風の音がする。梢を渡っているのだろう。だが樹が密生しているためか、森の中には吹き込んで来ない。地面は凍てついているらしい。その上を腐葉が蔽うている。で、ズボズボと足が入る。
 一式小一郎は傾斜面を、ズンズン上へ上って行く。気が忙《せ》くので足が早まる。だが息切れのしないように、丹田へ力をこめている。
「考えてみればあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]ものだ」小一郎は心中で考えた。
「案内知らぬ森の中を、こんな塩梅《あんばい》にただむやみと、上へ上へと上ったところで、そのあるという大池へ、辿りつくことが出来るかしら? そうしてはたして大池の畔《ほとり》に、昆虫館があるかしら? 幸い大池と昆虫館とを目つけ出すことが出来たとしても、あの美しい声の主を、発見することが出来るだろうか? ……だがマアそいつ[#「そいつ」に傍点]は考えまい。ただ歩くんだ歩くんだ! ただ進むんだ進むんだ!」
 そこでズンズンと突き進んだ。と、森の木がまばらとなり、小広い一つの空地へ出た。一座の大岩が聳えている。
「はてな?」とその時小一郎は足を止めて耳を澄ました。その大岩に反響し、人の足音が聞こえたからである。どうやら大岩の向こう側から、こっちを目指して来るらしい。一人や二人の人数ではない。十五六人の人数である。
「一ッ橋家の侍ども、ははあさてはやって来たな。さてどうしたものだろう?」――こうなっては他に思案もない。逃げるかもしくはぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]ばかりだ。「どうなるものか、ぶつかってしまえ」
 早くも決心した一式小一郎は、素早く四辺《あたり》を見廻したが、足場を計るためだろう。「ちょうど幸い大岩がある。こいつを早速楯として、構うものか、叩っ切ってやろう」
 及び腰をして待ち設けたがそれとも感付かぬ岩向こうの人数、ガヤガヤ喋舌《しゃべ》りながら近付いて来た。その時小一郎は声をかけた。
「ご用心!」とまず一言! それから凛々と云ったものである。
「あいやそこへ参られたは、南部集五郎殿をはじめとし、一ッ橋殿のご家中でござろう。その目的は昆虫館探し、何とさようでござろうがな」ここでちょっと言葉を切り、先方の様子を窺った。
 と、ひどく驚いたらしく、足音が止み声が絶えた。がすぐ南部集五郎の、物々しい声が聞こえてきた。
「そういう貴殿は何者かな? いかにも我々は一ッ橋家の家臣!」
 そこで小一郎は声を上げた。
「南部氏だな、声で解る。拙者は一式小一郎、貴殿にとっては怨みあるもの。拙者にとっても怨みがある。小梅田圃では意外のことから、せっかくの果し合いが中折れ致した。あの夜の続き、今日こそ果そう。さて次に」と小一郎は、ここで一段声を張ったが、「一ッ橋家の爾余の方々、お互い私怨とてはござらぬが、拙者は田安家のまず家臣、貴殿方は一ッ橋殿の家臣、近来田安家と一ッ橋家、各々方にもご存知通り、事ごとに競争致しております。そこで」と云うと小一郎は投げたような調子に言葉を変えた。
「お館同士の競争は、家臣同士の競争でござる。そいつが迫り合うと喧嘩になる。喧嘩のどんづまり[#「どんづまり」に傍点]は果し合い! これはもうもう定《き》まった話だ。そこで喧嘩! そこで果し合い! 勝負だア――」
 と威嚇的に叫んだ。それからじいいっ[#「じいいっ」に傍点]と耳を澄ました。向うからは何の返辞もない。だが何となく騒がしい。どうやら用意をしているらしい。
「敵は多勢、俺は一人、多少詭計を用いずばなるまい」こう考えた小一郎はわざと厳《いか》めしく声をかけた。「拙者は大岩のこっちにおる。いつまでもここでお待ち受け致す。左からなりと右からなりと、ご随意にかかっておいでなされ。左右同時にかかられるもよかろう。岩を巡って、さあさあ参られい」
 スルリと刀を引き抜くと、スルスルと大岩の左の角、そこまで行くと腹這いになった。



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