国枝史郎「神秘昆虫館」(10) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(10)

  10

 腹這いになった小一郎が地面へ耳をおっ[#「おっ」に傍点]付けたのは、この方面から一ッ橋家の武士ども、幾人来るか足音を、聞き澄まそうとしたのである。と、忍びやかに腐葉を踏み、近寄って来る足音がした。「うむ、大略《おおよそ》七八人だな。……ははあそうすると反対側からも、七八人がやって来るらしい。お誹え通りだ。左右から廻り、腹背を衝こうとするらしい。よし」と尚も聞き澄ました。「三間……二間……立ち止まったな。……また歩き出した、怖そうに。……来たな!」
 と小一郎は飛び上ったが、飛び上った時には飛び出していた。上げた一刀、片手切りの呼吸、カーッと掛けたは喉的破音《こうてきはおん》、狙いは感覚、サーッと切った。
「ガッ」という悲鳴、倒れたのは、真っ先に進んで来た段鼻の武士で、頭の鉢を右から斜《はす》、左の眼頭まで割り付けられた。
「おッ」と叫んだは赤痣のある武士、二番手として進んで来たが凄い気合、素晴らしい剣技、目前味方の斃されたのを見ると、居縮《いすくん》だように棒立ちになった。そこを目掛けて小一郎は取り直した大刀、柄を廻し、一歩踏み出すと身長《せ》を縮《すく》め、相手の左胴を上斜めに、五枚目の肋《あばら》六枚目へかけ、鐘巻流での荒陣払い、ザックリのぶかく[#「のぶかく」に傍点]掬い切った。
 痣のある武士、ムーッと呻くと、ポタリと刀を落としたが、全身を弓のように蜒《うね》らせると、ヒョロヒョロヒョロヒョロと前へ出た。
 と、小一郎は、抑えた呼吸で、ヒョイと刀を手もとへ引いた。連れてドッタリ斃れた敵、ドクドクドクドクと流れる血、下は腐葉だ、滲み込んでしまった。瞬間に二人を討って取られ、浮き足立った一ッ橋家の武士達、思わずタジタジと引くところを、
「参るゾーッ」と声をかけ、ヌッと右足を踏み出したのは、追い迫る気勢を示したのである。胆を奪われた一ッ橋家の武士ども、刀を引くと一息に、元来た方へ逃げてしまった。
 追っかけると見せて身を翻えし、岩角まで飛び返った小一郎は一瞬耳を澄ましたが、「いるな」と呟くと一躍した。はたして七八人そこにいた。真っ先に立ったは頬髯のある武士で、突然小一郎に飛び出され、ギョッとして一足引くところを、「参るゾーッ」と例の大音、まず一喝くれて置いて、毯のように弾んで飛びかかったが、刀の柄頭《つかがしら》を胸へあて、肩を縮めたも一刹那、うむ[#「うむ」に傍点]と突き出した双手突き、極《きま》った! まさしく! 敵の咽喉へ! だがその間に敵の一人、右手から颯《さっ》と切り込んで来た。何の驚く、飛び返ると、狙いを外した敵の一人、自分の力に自分から押され、トントンと二三歩前へ出た。背が低まって右の肩が、さも切りよげに小一郎の、眼の前三尺へ泳いで来た。そこをすかさず小一郎は、刀を上げると横撲り、軽くスッポリと切り付けた。
 右腕を肩から落とされて、悲鳴を上げるとキリキリキリと、独楽《こま》のように二三度廻わったが、まずグンニャリと腰を砕き、すぐに横倒しに倒れてしまった。
 ここでも一式小一郎は瞬間に二人を斃したのである。二人斃された一ッ橋家の武士ども、太刀を構えたたまま後退《あとじさ》り、次第々々に下ったが、岩角まで行くと背中を見せ、一斉に岩陰へ引いてしまった。
 左右の敵を左右に追い込み一人となった小一郎はここで気息を抜くような、そんな不鍛練な武士ではない。ピッタリと大岩へ背をもた[#「もた」に傍点]せ、敵、眼前にあるがよう、グッと前方を睨んだが、にわかにシーンと体を沈め、ヒョイと踏み出したは右の足だ、膝から曲げて左足を敷き、曲げた膝頭の上二寸、そこへ刀の柄をあて、斜めに枝を張ったように、開いて太刀を付けてしまった。得意の構えだ。下段八双。棒の「掻《か》い手《で》」から編み出された鐘巻流では必勝の手。さてそれからユルユルと、頭《こうべ》を巡らすと右手を見た。が、はたして一ッ橋家の武士ども、岩角を巡って現われたが、以前に懲りたか遠廻りをし、タラタラと正面数間の彼方へ、一列に並んで構え込んだ。
「ほほう来たな」と呟いたが、小一郎は頭を巡らすと、左手の方をゆるやかに見た。思った通りだ、岩角を巡り、一旦逃げた一ッ橋家の武士ども、同じく遠廻りに廻りながら、タラタラと正面数間の彼方へ、一列を作って立ち並んだ。
 つと進み出た武士がある、「一式氏」と声を掛けた。余人ではない。南部集五郎だ、年の頃は二十七八、赧ら顔で大兵肥満、上身長《うわぜい》があって立派である。眉太く、眼は円《つぶら》、鼻梁長く、口は大きい。眉の問に二本の縦皺、これがあるために陰険に見える。「一式氏」ともう一度呼んだが、嘲笑うように云いつづけた。「悪縁でござるな、貴殿とは! 一人の河原者を争って、小梅田圃で切り合ったばかりか、どうやら今度は姿さえ知れない、美しい声の持主を、争わなければならないようで。…‥と云うとあるいは貴殿には、さようなものはとんと[#「とん」に傍点]存ぜぬ。争いの種を阪東小篠、ないしは神秘な昆虫館……などと云われるかも知れないが、何の何の、そんなことはござらぬ。小梅田圃で聞いた声、あの美しさを耳にしては、どんな人間でも引き付けられますて。現に」と云うと集五郎は、好色漠らしい厭らしい、不快な笑いを浮かべたが「現に」ともうー度、繰り返した。「拙者においても引き付けられ、その声の主を目付けようと、ここまで出張って来たほどでござる。で、貴殿におかれても、やっぱり美しい声の主を、探しに来られたに相違ござらぬ。狂いましたかな。この眼力! ……だがそれにしてもこんな所で、貴殿にお逢いしようとは、いささか意外でございましたよ。そこでいよいよ悪縁と云う、この言葉がピンと響きますて。……が駄弁はこのくらい。……方々!」と云うと集五郎は、味方の勢《ぜい》を振り返った。



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