国枝史郎「神秘昆虫館」(12) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(12)

  12

「だから申したのでございます」顫えた声で君江が云う。「小一郎様、一式様、あの森へはお入りなさいますな。恐ろしい魔所でございます。入ったが最後、お身の上に、きっと危険がございましょう。いけませんいけません。入っては。……それだのにあの方憑かれたように、スルスルと入って行かれました。……お父様お父様急ぎましょう! 早く早く目付けましょう! ……どうぞご無事でいられますよう。……妾はこんなに顫えています。……だんだん胸が苦しくなる!」
「そうだそうだ、急がなければならない。早く目付けないと取り返しが付かない。……やいやい野郎ども声を上げろ! お呼びしてみろ、お呼びしてみろ!」
 そこで一同呼び立てた。「小一郎様!一式様!」
 声々が森に反響する。「小一郎様!」と返って来る。「一式様!」と返って来る。一緒になって君江も呼んだ。君江の声が一番高い。恋人探しの若い娘の、一所懸命の声だからである。
 一人がボーッと竹法螺を吹いた。木精《こだま》ばかりが、ボーッと返る。
 ドンドン一同押し上る。歩きにくい歩きにくい。
 と、一所森が途切れ、小広い空地が現われた。そこに一座の大岩があった。その前に一人の武士がいた。他ならぬ一式小一郎で、ピッタリ太刀を構えている。それを半円に取り囲み、十二人の武士が構えていた。
 全く意外な光景であった。英五郎も君江も乾児《こぶん》の者も、アッと一時に釘付けになった。
 その時である。小一郎は、一躍前へ飛び出した。キラッと光ったは刀であろう。一声悲鳴が森を縫った。一人の武士がぶっ倒れた。しかしその次の瞬間には、十一人の武士がグルグルと、小一郎を真ん中に引っ包んだ。
「お父様!」
「君江!」
 と親子二人が、ヒョロヒョロとよろめいたのは、一式小一郎が、十一人の武士に、討って取られたと思ったからであろう。が、そいつは杞憂であった。数合の太刀音、数声の悲鳴、二人の武士が転がった。と、爾余の武士達が、ムラムラと左右へ崩れ立った。その隙間から毯のように、ポンと飛び出した武士がある。小一郎だ、岩を背負い、軽傷も負わぬか、たじろぎ[#「たじろぎ」に傍点]もせず、刀を付けて構え込んだ。
「野郎ども!」と英五郎は、はじめて大音を響かせた。「やっつけてしまえ、背後《うしろ》から! 鏖殺《みなごろし》にしろ! 三ピンを!」
 竹槍、棍棒、道中差し、得物をひっさげた百人あまりの乾児、ワーッとばかり鬨の声を上げた。英五郎を先頭に君江までが、武士達の一団へ切り込んだのである。
 しかしこの時何という、不思議なことが起こったのだろう!
 森の奥から気味の悪い、妖精じみた叫び声が、はっきり二声聞こえたのである。
「お山を穢すな! お山を穢すな!」
 それからゴーッという音がした。
 それから大水が流れて来た。河というよりも滝というべきで、石を転ばせ木を倒し、灌木の茂みを根こそぎ[#「こそぎ」に傍点]にし、そうして人間を押し流した。小一郎はどうしたろう! 一ッ橋家の武士達はどうしたろう? 英五郎や君江達はどうしたろう?

 さてその日から数日経った。
 ここは森林の底である。周囲半里はあるだろうか、大きな池が湛えられている。その岸に点々と家がある。
 ひときわ大きな木造家屋は、全く風変わりのものであった。一口に云えば和蘭陀《オランダ》風で、柱にも壁にも扉にも、昆虫の図が刻《ほ》ってある。真昼である、陽があたっている。
 と、玄関の戸をひらき、現われた一人の武士がある。何と一式小一郎ではないか。
 前庭をブラプラ歩き出した。
「いい景色だな、風変わりの景色だ。日本の景色とは思われない」
 こんなことを口の中で呟いている。
「小一郎様」と呼ぶ声がして、家の背後《うしろ》から現われたのは、笑みを含んだ桔梗様であった。
「ご気分はいかがでございます」
「お蔭で今日はハッキリしました」小一郎は愉快そうに笑い返した。
「憎い大水でございましたことね」
「かえってお蔭で昆虫館へ参られ、私には本望でございましたよ。その上美しい声の主の、あなたにお目にかかれましたのでな」
「おや」と云うと桔梗様は、花壇の方へ眼をやった。四季咲き薔薇の花の陰から、誰か覗いていたからである。二人の話を盗み聞くように。



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