国枝史郎「猿ヶ京片耳伝説」(08) (さるがきょうかたみみでんせつ)

国枝史郎「猿ヶ京片耳伝説」(08)

    救われた命、助かった心

 これより少し以前《まえ》のことであるが、桔梗屋の主人《あるじ》佐五衛門は、行燈を提げ、帳場の辺をウロウロしていた。
(娘は?)
 とこのことばかりを思っていた。
(どこへ行ったろう? 何をしているのだ! こんな時に、こんな物騒な時に!)
 廊下の方から、部屋部屋から、二階からも階下《した》からも、足音、悲鳴、呶声、罵しり声、物を投げる音、襖障子を開閉《あけたて》する音が、凄まじく聞こえて来た。
 ――五人の湯治客が囲炉裡側《ばた》で、片耳のない武士の話をしていると、表戸を蹴開き十数人の捕り方が混み入り「三国峠の権という盗賊この家に潜みおる、縛《から》め取るぞ」と叫び家探しにとりかかった。裏口からも捕り方は侵入したらしく、その方からも足音や呶声が聞こえて来た。
 それはほんの寸刻前《いましがた》のことで、今はもうこの店の間には、捕り方も湯治客もいなかった。捕り方は奥へ走り込み、湯治客たちは散々《ちりぢり》に逃げたからであった。
「娘は?」
 暴風《あらし》の吹いた後のように、帳場格子は折れ、硯箱はひっくりかえり、薬罐は灰神楽《はいかぐら》をあげている店の間を、グルグル廻りながら(娘は?)と佐五衛門は、そのことばかりを思った。
(あッ、風呂へはいりに行ったっけ!)
 やっと思い出した。そこで行燈を抛《ほう》り出し、廊下の方へ走り出した。
「お父様アーッ」
 と、お蘭が、その廊下から駆け込んで来た。
「お蘭が! わッ、その風《ふう》は!」
 お蘭は、男の着物、それも襤褸《ぼろ》のような着物を纒っていた。
「これ、権の着物よ、三国峠の権の……」
「権の? じやア手前、……」
「逢ったの、権と。……風呂で……」
「ヒエーッ、それじゃア手前、体を、権に! ヒエーッ、嫁入り前の体を!」
「何云ってるのよ。権、いい人だわ、恥ずかしがり屋だわ。悪人じゃアないわ。妾の眼に狂いはないわ! ……助けてやらなけりゃア! 捕られちゃア可哀そうよ」
「手エ付けなかったと? お前へ!」
(本当だろうか?)
(本当ならどんなに有難いことか!)
 と思う心の裏に、そんなことのあろう筈がないという不安が、すぐに湧いて来た。
(兇悪で通っている三国峠の権が、若い娘と、人のいない風呂で……)
 ムラムラと疑惑が募るのであった。
 でも、彼は、娘が、ひたむきに権を助けようとして焦心《あせ》るばかりで、権に対し、怒りも悲しみも怨みもしていない様子を見ると、やはり権が、自分の娘へ毒牙を加えなかったことを、認めるより仕方がなかった。
(好きな許婚《いいなずけ》の進一と、一月先になると、夫婦《いっしょ》になることになっている娘だ、それが泥棒に……そんなことをされようものなら、泣き喚き怨み憤るは愚か、突き詰めた心で、首を絞《くく》るぐらいのことはやるだろう。それだのにどうだお蘭は、泥棒の権を助けようとして夢中になっている。……とすると権は、やっぱり、ほんとうに、お蘭に手をつけなかったんだ!)[#「なかったんだ!)」は底本では「なかったんだ!」]
「偉えぞ権!」
 と、佐五衛門は、嬉しさと、感謝と、神々しい奇蹟にでも遭遇《ぶつかっ》たような心持ちとで、思わず喚き出した。
「悪人じゃアねえとも、権! 悪人どころか、神様みたいな男だ!」
「竹法螺《たけぼら》を、お父さん、竹法螺を!」
「吹くか、いいとも、竹法螺吹いて、捕り方の奴らを!」
 柱にかけてあった竹法螺を佐五衛門はひっ[#「ひっ」に傍点]外した。
「妾が吹く、妾が!」
 と、お蘭は、父親から竹法螺をひったくる[#「ひったくる」に傍点]と、蹴放されたままで、月光を射し込ませている表戸の開間《あきま》から、戸外《そと》へ走り出た。
 その後を追って佐五衛門も走った。
 と、その時、捕り方の叫ぶ声が聞こえて来た。
「方々、ご用心なされ、三国峠の権の手下五人が、この湯宿に、権めを待ち迎えおるということでござるぞ!」
(あッ)
 と佐五衛門は、それを聞くと、思わず口の中で叫んだ。そうして思った。
(そうか、これで解った、炉端に集まっていた五人の湯治客、三国峠の権の手下だったんだ。あいつらの話した話は――片耳を切られた武士《さむらい》の話は、権の過去の出来事だったんだ。ああいう話を俺《おい》らに聞かせておいて、こんな場合に、味方になってくれと謎をかけたんだ。それに違えねえ。……つづけざまにあんな目に逢わされりゃア誰だって悪党にならア。……三国峠の権、根は善人とも!)

 谷の方から竹法螺の音《ね》が聞こえたので、捕り方たちは、三国峠の権が捕えられたと思ったのだろう、屋内や木蔭などから走り出し、谷を目ざして走って行った。と、その隙を狙い、五人の手下に護られた三国峠の権が、谷とは反対の、山の方へ遁がれて行くのが見られた。一刻も早く姿を隠さなければならなかった。見れば、主屋と離れて、山の中腹にかけ[#「かけ」に傍点]づくりになっている別館《はなれ》があって、主屋と廊下でつながれていた。あの別館へ一時身をかくし、手下どもが用意して来た衣裳と着換えよう――こう権は思った。そこで崖をよじ上り、廊下へ這い上がった。部屋の中へ駆け込もうとしたとたんに、
「……権よ! この耳を切っておくれ!」
 という女の声が聞こえ、部屋から女が走り出して来た。
「…………」
「…………」
 権之介――三国峠の権と松乃とはヒタと顔を合わせた。
 谷からは尚お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来ていた。
「権! ……権之介様、恨みある妾の耳を、さあお切りくださいませ!」
 谷からは、――本当は悪党ではない三国峠の権よ、早くここから逃げておくれというように、お蘭の吹く竹法螺の音が聞こえて来た。
「俺ア」
 と権は云った。
「お前なんか知らねえ、昔から今までお前のような女知らねえ」
 松乃は廊下へ仆れた。
 耳の痛みが次第に消えて行く中で彼女は思った。
(救われた! 妾は救われた)

 三国峠の林の中を、五人の手下と一緒に、今は悠々と歩きながら、三国峠の権は思った。
(誰が吹いたかしらねえけれど、竹法螺のおかげで、俺ア助かったのだ)

 権はその後改心したという。




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