国枝史郎「神秘昆虫館」(13) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(13)

  13

「どうなされました?」と小一郎は、桔梗様の顔を見守った。
「いいえ何でもございません」こう云ったは桔梗様で、いくらか不安そうな様子である。
 だが覗いていた眼の主は、すぐに姿を消してしまった。コツンコツンと音がする。松葉杖の音である。覗いていたのは吉次らしい。花壇を巡って立ち去ったらしい。
 そこで小一郎と桔梗様とは、大池の方へ歩き出した。
「あの大水には驚きました。幸いに岩陰におりましたので、私は流されはしませんでしたが、他の連中は一人残らず、流されたことでございましょう」小一郎は笑止らしく云ったものである。
「しかし私も実際のところ、したたか水を飲ませられ、かなりひどい目には合わされましたよ」
「お気の毒でございましたこと」桔梗様は美しく笑ったが、「ご縁があったのでございましょうよ、何となく妾心配になり、平素《いつも》にもなく召使いどもを連れて、あの大岩まで行って見ましたところ、綺麗な若いお侍様が――あなたのことでございますよ――気絶しておいで遊ばすので、すぐお助け致しましたものの、父は不機嫌でございました」
「あなたのお父上昆虫館ご主人、ちと変人でございますな。アッハッハッ」と笑ったが、「学者にあり勝ちの憎人主義者のようで。……それはそうとあの大水、人工だそうでございますな?」
「槓杆《こうかん》一本を動かしさえすれば、大池の水が迸《ほとばし》り、流れ出るのでございます」
「とんでもない悪い槓杆で」小一郎はしかし愉快そうである、「いや俗流を追っ払うには、よい考案でございますよ。承われば、その他にも、いろいろの防備がございますそうで」
「はい」と云ったが桔梗様は、それについて話すのを好まないらしい。ヒョイと話題を変えてしまった。
「厭なお方でございますこと」こんな事を云い出した。
「は?」とちょっとばかり[#「ちょっとばかり」に傍点]面喰らったが「どなたでございますな、厭な奴とは?」
「奴などと申しは致しません」――言葉を慎しめと云いたそうに、桔梗様はちょっと睨んだが、「厭なお方でございますこと」
「は、どうやら私のことのようで?」
「はいはいさようでございますとも」
「すると」小一郎は故意《わざと》らしく、誇張した悲しそうな表情をしたが、「美しいお声の令嬢に、恋を捧げるということは、あなたにはお気に召さないようで」
「嗜好《このみ》に合いませんとも、妾にはね」
 桔梗様も故意《わざ》と空呆けた。「恋には捧げようがございますよ」
「承わりましょう、捧げようを?」
「跪《ひざまず》くのでございます」
「ああそれではこんなように」突然小一郎は飽き、両手を上向けて捧げるようにしたが、「お受けくださいまし、私の恋を!」
「騎士《ナイト》よ」と桔梗様は笑いながら云った。「大岩の陰や小梅田圃などで、むやみと太刀を揮わないように」
「ああなるほど、そのことで、厭な野郎と仰有ったのは?」
「厭なお方と申しましたのは」
「心得ました。今後は注意! ――で、令嬢よ、私の恋は?」
「お立ちなさりませ! 妾の騎士!」それから片手をつと延ばした。
 その手を握りしめた小一郎は、立ち上ると今度こそ本当に、歓喜の声を上げたものである。
「あああなたは私のものだ!」それから心で考えた。「こんなに早くこの恋が、成り立とうとは思わなかった」
 だが桔梗様は不安そうに、「伴いそうでございますよ。恐ろしい恐ろしい危険がね! ああ何となく私達の恋には!」
「お信じください」と小一郎は、自分の胸を指さした。「防いでみせます。この楯で」それから両腕を差し出した。「お信じください、この腕を!」
 二人優艶に抱き合おうとした。
 大池へ通う小径《こみち》である。小径の左右は花壇である。早春の花が咲いている。縞水仙の黄金色の花、迎春花の紫の花、椿、寒紅梅、ガラントウス、ところどころに灌木がある。白梅が枝を突っ張っている。貝のような花をつけている。昼の陽が小径に零れている。敷かれた砂がキラキラと光る。二人の影が落ちている。行手に見えるは大池の水で箔を置いたように輝いている。背後に立っているのは昆虫館で、玄関の戸が開いている。窓のカーテンは引かれている。柱や板壁に彫りつけられた、昆虫の模様にも陽が射している。
 と、そこから呼ぶ声がした。「桔梗、桔梗、ちょっとおいで!」
 カーテンが開けられて現われたのは、昆虫館主人の顔であった。



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