国枝史郎「神秘昆虫館」(15) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(15)

  15

 そこで小一郎は云い出した。
「穢しはせぬよ、崇めるばかりだ」
「それがいけない」と片足の吉次は、「崇めた後では穢すものさ」
「名言」と小一郎は一笑してしまった。「君の人情観察には、徹底したものがあるらしい。で、一応は受け入れて置こう」
「守らっしゃい!」と押し付けるような声で、吉次はグッとたしなめ[#「たしなめ」に傍点]にかかった。「いっそ昆虫館をお立ち去りなされ!」
「さあてね」と小一郎は、わざと困ったような顔をしたが、「女王殿下が許しましょうかしら?」
「ソレソレソレ、それが悪い!」吉次は今度は叱るように、「許すもない、許さないもない、本来神秘昆虫館へは、下界の人間を入れぬが規則、そいつを破って貴殿一人を、ここへ住居《すまい》を許したのは、桔梗様特別のお慈悲だからだ」
「だからよ」と小一郎は冷《ひや》っこく、「その桔梗様がこの拙者を、お放しなさるまいと云っているのさ」
「だからよ」と吉次も云い返した。「そういうお慈悲深い桔梗様だ、恋してはならぬ、手を取ってはならぬ、うむ、そうして跪《ひざまず》いてはならぬ」
「ははあ隙見をしていたな」
「見守っていたのだ、厳しくな!」
「手を下されたのは桔梗様だ」
「お前がそれを強請《せが》んだからさ」
「恋の告白をしただけさ」
「オイ」と吉次は憎々しく、「この昆虫館にいるほどの者で、誰一人として桔梗様を、恋していない者はないのだよ。ただそいつを云い出さないまでさ!」
「そこでこの俺が云い出したのさ」
「そうだ、外来者の外道めが!」
「外道、よかろう、恋の勝利者!」
「俺が許さぬ!」とヌッと吉次は、松葉杖を上げると進み出た。
「俺が許さぬ! な、俺が!」
 だがどうやら小一郎には、一向それが風馬牛らしい。「一体お前は何者かな? 兄か、弟か、桔梗様の?」
「世にも忠実なる女王の僕《しもべ》さ!」これが吉次の返辞であった。
「そうか」と小一郎はゲラゲラ笑い、「引き立ててやろう、この俺がだ! 女王の[「馬]へん+「付」馬《ふば》になった時!」
 怒るかと思ったら反対であった。片足の吉次は、声を窃《ひそ》め、諂《へつら》うように頼むように、囁くような声で云ったものである。
「まあさまあさ小一郎殿、角目立つのは止めにしましょう。お互いろくなことはありませんからな。で、今度はご相談、いやいやむしろお願いでござる。と云うのは他でもないが、今も私申しました通り、昆虫館に住むほどの者で、あのお美しい桔梗様を、愛し崇めていない者は、一人もないのでございますよ。まさしく文字通り女王様でござる。だからどうしてもあの方だけは、永遠の処女で置かなければ、治まりがつかないのでございますよ。一人が占有しようものなら、それこそ誰も彼も怒りますて。まして貴殿は外来者、そうでなくてさえ白い眼で、みんなに見られているのでござる。そういう貴殿が占有したとあっては、昆虫館住民一斉に、騒ぎ立てるは見たようなもの、これが私には心配でな……。で願わくば昆虫館を、至急お立ち去りくだされたいもので」ここで上眼を使ったが、さらに一段声を窃め、「それが厭だと仰有《おっしゃ》るなら、よろしいよろしいお住居《すまい》なされ。ただし充分ご注意くだされ、今後は決して桔梗様の側へ、お立ち寄りなどなさいませんよう。そうして」と云うと狡猾らしく、二三度眼瞼《まぶた》を叩いたが、「そうしてどうぞ桔梗様へ、このように仰有っていただきたいもので、『先刻下されたあの御手は、何かのお間違いかと存ぜられます。で、私におきましては、失礼ながらあなた様との恋は、この際お断わり致します』とな。……そうするといつまでもこの里は、平和を保つことが出来ますので」
 こう云われて見れば小一郎も、一思案せざるを得なかった。
「なるほどな、そんなものかも知れない」心の中で呟いた。「昆虫館住民一人残らず、桔梗様を崇めているという、これには嘘はなさそうだ。外来者の俺が占有したら、たしかに不快に思うだろう。せっかくの平和が破れるだろう。こうなっては仕方がない。惜しい恋人ではあるけれど、桔梗様を見棄ててここを去ろう。そうして一まず関宿へ帰り、角屋の安否を尋ねてみよう。それから江戸へ帰るとしよう。だが待てよ」と小一郎は、吉次の顔をつくづくと見た。「醜貌ながらも智恵ありげだ。それもどうやら邪智らしい。こいつの言葉をそのままに、はたして受け取っていいだろうか?」ふとこの点へ気が付いた。
 と、早くも片足の吉次は、小一郎の心中を読んだらしい。ヒョイと二三歩飛び退ると、俄然態度を一変した。



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送