国枝史郎「神秘昆虫館」(16) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(16)

  16

「ふふん」とまずもって片足の吉次は、毒々しく笑ったものである。
「承知《きく》か、それとも断わるか、俺の云うこと、どうだどうだ! もしも」と云うとピョンピョンと、二足ばかり飛び出したが、「断わると云うなら覚悟がある! 落ち下るぞよ、恐ろしい危険が! しかも即座だ! さあ返答!」
 云いながら奇妙にも全身を、満足の一本の足の方へ、そろりそろりと傾けて来た。
「はたしてこいつ奸物だわい」見抜いた一式小一郎は、グンと突っ刎ねたものである。「恋も捨てぬよ、この地へも止まる、アッハッハッ、気の毒だなア」
「きっとか!」と吉次は、いよいよ益々、片足へ全身をもたせかけたが、心持ち両肩を縮めると、首を突き出し、上眼を使い、狙ったは小一郎の頤の辺り。「見損なうなよ、この吉次を!」
「見損なうなよ、一式小一郎を」
 とたんに、「うん!」という凄い呻きが、吉次の口から迸ったが、瞬間ピューッと空を裂き、射ね上ったは松葉杖でピカッと光ったは杖の先に、取りつけてある鋼鉄《はがね》の環、それとて尋常なものではない、無数の鋭い金属性の棘で、鎧《よろ》われたところの環である。意外な利器、素晴らしい手並み、しかも呼吸の辛辣さ、武道以外の神妙の武道!
「あっ」と叫んだは小一郎で、微塵に下頤を叩っ壊され、上下の歯を吹き飛ばし、舌を噛み切り血嘔吐《ちへど》を吐き、グ――ッ背後態《うしろざま》にへたばったなら、ヤクザな武士と云わなければならない。何の小一郎が、そんな武士なものか、「あっ」と叫んだ一刹那、大略《おおよそ》二間背後の方へ、束《そく》に飛び返っていたのである。
 柄へ片手はかけたものの、抜こうともせず悠然と、吉次の様子を眺めやった。
 すると吉次は、一本足で立ち、高々と松葉杖を振り上げたが、姿勢の立派さ、驚くばかり、地へ生え抜いた樫の木だ。と、そろそろと松葉杖を、下へ下へと下ろして来た。トンと突くと倚《よ》っかかり、して云い出したものである。
「見事、さすがは、一式氏、よく避けましたな、拙者の一撃! 百に一人もなかったはずだ。だが……」と云うとピョンピョンと飛んだ。「二撃がある、三撃がある、四撃五撃といつまでも襲う! 遁さぬぞよ、遁すものか! 逃げたら卑怯、武士とは云わせぬ! さあ抜け抜け、汝《うぬ》も抜け!」
 小一郎の前方約一間、そこまで迫って来た片足の吉次は、例によって全身を左へ傾け、一本の足で支えたが、ジリジリジリジリと松葉杖を、上へ上へと上げて来る。狙いはどこだ。解らない! ただジリジリと上げて来る。
「ちょっと凄い」と小一郎は、睨み付けながら考えた。「足か、胴か、横面か、それとも頤か、さっきのように。……あいつ[#「あいつ」に傍点]を受けたら粉微塵、骨肉共にけし飛ぶだろう。……習った武道とは思われない。あしらいにくいよそれだけに。切って捨てるに訳はないが、しかし相手は片輪者、それに昆虫館土着の人間、非難が起ころう、討ち果してはな」
 思案に余ってしまったのである。
 その間もジリジリと松葉杖は、上へ上へと上って来る。一尺二尺、さて三尺! とグーッと振り冠った。光るは棘のある環である。陽に反射してキラキラキラキラと、非常に綺麗な宝石のようだ。そうして吉次は、一本足で、ヌーッと突っ立ち微動もしない。例によって樫の木、生え抜いたようだ。
 と、何とその吉次であるが、翻然片足を刎ね返すと、小一郎の正面三尺の地点、そこまで飛び込んで来たではないか。
 同時に「うん」という例の呻きが、吉次の口から迸るや、シーン真っ向から松葉杖が、小一郎の脳天へ降り下ろされた。
 ひっ[#「ひっ」に傍点]外して右へ小一郎が、飛び交うのを追っかけた吉次の、その素早さ、どうでも妖怪、二本足のある人間より、遥かに遥かに遥かに早い。
「ド、どうだア――ッ」と松葉杖で、一式小一郎を払った。
 きわどく、左転、小一郎は、飛び交《ちが》ったが決心した。
「もういけない、叩っ切ってやろう!」
 腰を捻ったおりからであった、「一式様」と、呼ぶ声がした。つづいて、「吉次や!」と同じ声がした。
 清々しい桔梗様の声である。
 その桔梗様は花壇を巡り、二人の方へ近寄って来た。
「お話しいたしたいと申しまして、父が待っておられます。おいでくださいまし、一式様」
 吉次の方へ顔を向けた。
「行って砂糖をやっておくれ、蜜蜂を飢えさせていけません」



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送