国枝史郎「神秘昆虫館」(17) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(17)

  17

 ここは昆虫館館主の部屋で、和蘭陀《オランダ》風に装飾《よそお》われている。壁に懸けられたは壁掛けである。昆虫の刺繍が施されてある。諸所に額がある。昆虫の絵が描かれてある。天井にも模様が描かれてある。その模様も昆虫である。戸外《そと》に向かって二つの窓、その窓縁にも昆虫の図が、非常に手際よく彫刻《ほ》られてある。窓を通して眺められるのは、前庭に咲いている花壇の花で、仄かな芳香が馨って来る。長椅子、卓子《テーブル》、肘掛椅子、暖炉、書棚、和蘭陀《オランダ》箪笥、いろいろの調度や器具の類が、整然と位置を保っている。特に大きいのは書棚である。幅一間、高さ一間半、そんなにも大きい頑丈な書棚が、三個《つ》並列して置かれてある。だがそれでも足りないと見え、塗り込めになっている書棚があり、昆虫を刺繍した真紅《まっか》の垂れ布が、ダラリと襲をなしてかかっている。いやそれでも足りないと見え、二個《つ》の瀟洒とした廻転書架が、部屋の片隅に置かれてある。さてそれらの書棚であるが、日本の書籍など極めて少く、大方洋書と漢書とで、ふくれ[#「ふくれ」に傍点]上るほど充たされている。
 パチパチパチパチと音がする。暖炉で燃えている火の音である。暖炉の上に置かれてある花は、五月に咲くというトリテリヤである。温室花に相違ない。床には絨緞が敷かれてある。やはり昆虫の模様があり、その地色は薄緑である。
 それは黒檀に相違あるまい、しなやか[#「しなやか」に傍点]に作られた卓子の上に、幾個もの虫箱が置いてある。いや虫箱はそればかりではない。ほとんど無数に天井から、絹紐をもって釣り下げられてある。で、この部屋へ入る者は、多少頭を下げなければ、その虫箱に額をぶッつけ、軽傷を負わなければならないだろう。
 一方の壁に扉がある。隣り部屋へ通う扉らしい。
「誓ってこの扉をひらくべからず」
 こういう張り紙が張られてある。秘密の部屋に相違ない。
 もう一つの壁にも扉がある。それは廊下への出入口で、その扉にも昆虫の図が、彫刻《ほ》られてあることはいうまでもない。
 窓から日光が射し込んでいる。その日光に照らされて、書き物卓子《づくえ》が明るく輝き、一枚の図案を照らしている。図案というより模様と云った方がいい。微妙な単純な斑紋を持った、一個《ひとつ》の蝶の模様である。絵と云った方がよいかも知れない。
 長椅子にゆったり腰かけながら、話しているのは昆虫館主人で、鷲ペンを指先で弄んでいる。大分機嫌がいいらしい。
「……あなたは全くいい人だ。あなたのような人物なら、決して私は苦情は云わない。いつまでも昆虫館においでください。……だが恐らくあなたとしては、さぞ不思議に思われましょうな。私のこういう生活と、そうしてここの社会とが。……第一住んでいる人間が、私と桔梗とを抜かしてしまえば、全部が全部不具者というのが、不思議に思われるに相違ありますまいな。だがこれとて何でもないことで、由来不具者というものは、その肉体が不具だけに、心も不具だと思われていますが、これほとんでもない間違いなので、本当のところは正反対ですよ。肉体が不具であるだけに、心の中にひけめ[#「ひけめ」に傍点]があり、倣慢にならずに謙遜になります。人を憎まず、愛されようとします。ところが一般世間なるものは、そういう心持を理解せずに、肉体が不具だという点で、その不具者を軽蔑しますね。これが非常によくないことで、これあるがために不具者達は、僻み心を起こすのです。だから私としてはこういうことが云えます。健全な肉体の持主こそ、かえって心は不具者で、不具な肉体の持主こそ、その心は健全であるとね。そこで私は考えたのです。不具者ばかりを寄せ集め、一つの独立した社会を作ろう、そうしてそういう人達に、思う存分働いて貰い、私の研究をつづけて行こう。……と、こんなようにお話ししたら、この昆虫館の組織なるものが、奇もない変もない合理的なものだと、きっとあなただって思われるでしょうな。そうしてそれはそうなのですよ。……さてところで私の研究ですが、これとて何でもありゃアしません。私の好きなは昆虫なので、その昆虫の生活状態を、科学的に徹底的に研究してみよう、そうしてその結果法則を見出し、それが人生に必要なものなら、早速人生に応用してみよう。――と云うぐらいなものなのでね。……この試みは成功でした。蜂と蟻との集団生活、この二つを知ることによって、理想的人間の生活の、法則を知ることが出来ましたよ。で、その中あなたへも、お話ししようとは思っていますが、一口に云えばこうなるようです。王への忠誠、公平の労働、完全の分業、協同的動作、等、等、等、といったようなものでね。いや実際人間などより、どんなにか昆虫の生活《くらし》の方が、正しくて平等だか知れませんよ」
 学者らしい淡々とした口調である。
 向かい合って椅子へ腰をかけ、聞いているのは一式小一郎で、その顔付きは熱心である。



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送