国枝史郎「神秘昆虫館」(18) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(18)

  18

「だがご主人」と小一郎は、躊躇しながらも訊いてみた。「世間の噂によりますと、永生の蝶とかいう不思議な蝶が、この昆虫館にはありますそうで、どういう蝶なのでございましょう?」
 するとにわかに昆虫館主人は、いくらか憂鬱な顔をしたが、「結局私にも解らないのです」
「ははあ」と云ったが一式小一郎は、ちょっと物足りない思いがした。
「雄と雌との二匹がいて、二つを交尾《つが》えて子を産ませた時、莫大な財宝を得られるという、伝説的の蝶だそうで?」
「あれは絶対に子を産みませんよ」どうしたものか昆虫館主人は、こうにべもなく云ったものである。
「人工的蝶でございますからな」
「ははあなるほど、人工的なもので?」
「だがやっぱり生きてはいます」
 これは小一郎には解らなかった。
「では人間の力をもって、生命というものは作れますもので?」
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]も解らない」主人はいよいよ憂鬱になったが、「とにかくあの蝶は人工的のもので、非常な大昔に作られたものです。しかしやっぱり活きてはいます。だが絶対に子は産みません。しかしひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると産むかもしれない。それとて普通に云われている、子というものとは違いますなあ。千古の秘密は持っています。だがその謎は解けませんよ。私にさえ解けなかった謎ですからな。しかも不覚にもこの私は、雄蝶の方を逃がしてしまいました」
「ああその雄蝶をお探しになるため、小梅田圃などへ参られましたので。……それにしてもあの時お声だけ聞こえて、お姿の見えなかったのはどうしたのでしょう?」
「藪の中にはいっていたからですよ」
 こう聞いてみれば何でもなかった。むしろ飽気ないくらいである。
 しばらく部屋の中は静かである。働きながら唄っているらしい、昆虫館住民の歌声が、窓を通して聞こえてくる。平和と喜びの歌声である。
 と、不意に昆虫館主人は、卓上の図案を指さしたが、
「これでござるよ、一式氏、行衛を失なった雄蝶というのは」声がにわかに威厳を持って来た。
 そこで一式小一郎は、じっと図案を眺めやった。翅《はね》に付いている斑紋が、とりわけ小一郎には奇妙に見えた。普通の蝶の斑紋ではない。それは地図のような斑紋である。どんな人間でも一眼見たら、オヤと思わざるを得ないほど、変わった斑紋と云ってよい。
「奇妙な斑紋でございますな」
「さよう」と主人は頷いたが、「もう一匹の蝶の翅にも、これに似た斑紋がありましてな、どうやら私の考えによれば、どこかの地図かと思われますよ」
 でまた部屋の中が静かになった。やっぱり歌声が聞こえてくる。窓から花の香が馨って来る。早春などとは思われない。汗ばむほどに暖かい。どうでも酣《たけなわ》の春のようだ。
「それに致しても」と小一郎は不審《いぶか》しそうに訊き出した。「どうして先生にはそんな蝶を、お手に入れられたのでございますかな?」
「さあ」と云ったが昆虫館主人は、ここで沈黙をしてしまった。と、気軽に云い出した。「和蘭陀の首府ブラッセル、そこで偶然手に入れましたよ」それからこだわらず[#「こだわらず」に傍点]に云い続けた。
「私はこれでも名門でな、門地から云えば徳川の連枝、もっとも三代将軍の頃、故あって家は潰されましたが、血統だけは今に続き、まず私が直系の後胤、青年の頃から欧羅巴《ヨーロッパ》へ渡り、そこで一通り昆虫学を学び、帰朝したのは最近のことで。……がマアそれはどうでもよい、ところで問題の雌雄の蝶だが、これは決して外国産ではなく、作られたのは間違いなく日本、それから朝鮮、支那を経て、和蘭陀の国へ渡ったようです。証拠もいろいろありますが、それは専門に属していることで、お話ししても解りますまい。……これはおかしい!」
 と昆虫館主人は、にわかに長椅子から突っ立ち上った。
「敏感な麝香《じゃこう》虫が騒ぎ出した」スルスルと窓まで走ったが、「困ったことだ! 何か起こる! 俺には解る、大事件が起こる!」
 ちょうどこの頃のことである。片手の小男が馬に乗り、関宿《せきやど》とは反対の方角から、大森林を上へ上へと、昆虫館を目差して走っていた。非常に周章《あわて》ているらしい。非常に恐怖しているらしい。
「さあ大変だ大変だ、早く先生へお告げしなければならない。攻めて来る攻めて来る彼奴《きゃつ》らが!」
 こんなことを口の中で呟いている。馬術は精妙、木立を潜《くぐ》り、険路を突破して走って来る。
 やがて間もなくこの伝騎は昆虫館へ馳せ付けるだろう、そうしたら何かが語られるだろう。美しい平和な昆虫館に、そのため騒動が起こらなければよいが。
 伝騎が着いた。小男が叫んだ。――
「ご用心なさりませ、山尼《やまあま》の徒が、続々入り込んで参りました!」



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