国枝史郎「神秘昆虫館」(20) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(20)

  20

 だが一式小一郎には、君江の心が解っていた。「無茶苦茶にこの俺を愛しているのさ」
 そうしてそれは小一郎にとっては、決して不愉快ではないのであった。否々むしろ嬉しいのであった。
「何と云っても風変りの娘さ。こんな娘と所帯を持ち、町家住居をやらかしたら、とんだ面白い日が暮らせるかもしれない」
 そうはいっても小一郎には、桔梗様のことが忘れられなかった。「あの桔梗様の美しさは、いわば類稀れなるものだ。君江などとは比べものにはならない」とはいえ今に至っては、どうすることも出来なかった。「それにしてもどうして桔梗様は、この俺の恋を入れながら、この俺と一緒に来ようとはせず、昆虫館などへ残ったのだろう?」これがどうにも不平であった。「恋人の愛より親の愛の方が、魅力があったというものかな?」そうととるより仕方なかった。「若い娘というものは、親の愛なんか蹴飛ばしても、愛人の方へ来るものだと、俺は今日まで思っていたが、どうもね、今度は失敗したよ」それが不服でならなかった。
 にわかに小一郎は馬の上で、ク、ク、クッと笑い出してしまった。
「何の馬鹿らしい、考えてみれば、せっかく昆虫館を探し中《あ》てた結果、一体何を得たかというに、あの『騎士《ナイト》よ』という言葉だけだったってものさ」
 自嘲的にならざるを得なかった。
「何をお笑いなさいます?」君江はちょっとばかり怪訝そうに訊いた。
「騎士よ、騎士よ、ハッハッハッ、こんな言葉を覚えましたので」
「綺麗な言葉でございますこと」
「その癖中身ほからっぽ[#「からっぽ」に傍点]で」
「どういう意味なのでございましょう?」
「恋人の前へ跪《ひざまず》き、恋人のお手々を頂戴し、そのあげくお手々をふんだくられ[#「ふんだくられ」に傍点]、ひどい目に会わされるさむらい[#「さむらい」に傍点]の、毛唐語だそうでございますよ。云ってみればちょうど拙者のようなもので」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな騎士!」
「可哀そうな可哀そうな可哀そうな拙者!」
「でも、妾なら裏切りません」
「また拙者にしてからが、あなたの前では跪《ひざまず》きません」
「好きでございます、そういうお方こそ。……女を認めないで虐めるお方! 本当の男でございます」
 二人の旅は続いて行く。
 ふと小一郎は気になった。
「ご両親はご承知でございましょうな? あなたが拙者と住むことを?」
「妾、勘定に入れませんでした」
「ああ」と思わず小一郎は、嘆息の声を筒抜かせた。それから口の中で呟いた。「何も彼も一切反対だ、あの桔梗様とこの君江とは」
 二月《きさらぎ》である。野は寒い。枯草がサラサラと戦《そよ》いでいる。山々が固黒く縮《ちぢ》こまっている。花などどこにも咲いていない。旅人の姿も見あたらない。ひっそり閑とただ寂しい。
 シャン、シャン、シャン……カパ、カパ、カパ、この音ばかりが響き渡る。二人ながら今は黙ってしまった。江戸へ江戸へと歩いて行く。が、このまま江戸入りをしたら、奇もなければ変もない、平凡な旅だと云わなければなるまい。ところが一つの事件が起こった。と云うのは林へ差しかかった時、枯葉でもあろうヒラヒラと、一葉の葉が舞って来た。全く無意識というやつである、ヒョイと小一郎は右手を出し、パッとばかりに掌で受けた。
 と、落ちて来たその木の葉であるが、掌の上に静もったが……
 見れば!
 蝶だ!
 季節違いの!
「ううむ」と小一郎は翅を見た。「斑紋がある! あの斑紋!」それからホーッと吐息をした。
「ああこれこそ永生の蝶!」
 さてこの蝶を得たばかりに、江戸入りをした小一郎はさまざまの危難に遭遇し、その剣侠の剣侠たる所以《ゆえん》を、縦横に発揮することになった。



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