国枝史郎「神秘昆虫館」(21) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(21)

  21

 春がやって来て春が去り、江戸の町々は初夏となった。
 ここは深川上の橋附近の、中洲の渡しに程近い地点で、そこにささやかな町道場があった。道場の主人は一式小一郎で、君江と二人で住んでいる。一人甚吉という下男がいる。内弟子もない質素な住居――と云いたいがそうでもない、いろいろの人間が集まって来た。浪人、遊び人、小旗本の次男、仲のよい田安家の友人達、安御家人やごろん[#「ごろん」に傍点]棒、剣術好きの町家の番頭、それから勇みの鳶の者。
 鐘巻《かねまき》流剣道指南。
 門に看板が上っている。
 時々竹刀の音もするが、それより無駄話や高笑いの方が、一層繁く聞こえてきた。
 剣道指南所というよりも、倶楽部と云った方がよさそうである。
「父親から仕送りが来るんだよ、束脩《そくしゅう》や月謝なんか宛にするものか」
 これが小一郎の心持であった。
 父清左衛門云って日く、「どうせお前は次男の身分だ。養子に行くか別家するか、どうかしなければならないのだが、どっちもお前には適しないらしい。戦国の世にでも産れたら、小城の主ぐらいにはなれたかもしれない。ちょっと当世には向かない性《たち》だ。遊侠の徒になるもよかろう。町道場をひらくもいい。好きな娘と暮らすもいい。そうしてそうやって暮らしていることが、やがては君侯田安家のおために、ならないこともなかろうからな。いろいろの人間と交わって、たくさん同志を作るもよかろう。台所の方は引き受けたよ。まさかお前に食い潰されもしまい」
 こういう背後《うしろ》楯があるのである。小一郎たるもの喜ばざるを得ない。
 とはいえ一式小一郎は、そういう父の寛大に付け込み、暢気に遊んでいるような、そんなナマクラな人物ではなかった。
「手に入れた永生の蝶の秘密を、是非とも解いて見たいものだ」――こいつに腐心をしているのであった。
 さてその永生の蝶であるが、まことに不思議なものであった。たしかにそいつは生きていた。呼吸もしていれば脈搏っている。しかし翅から肢体から、普通の蝶とはまるで異う。普通の蝶のように軟らかくない。鋼鉄で造られているのである。――いや鋼鉄で造られていると、そう云わなければ云いようのないほど、特殊の堅い物質で、精巧に造られているのである。
 それは実際こういうことが出来る。
 ――生命を持った人工の蝶と!
 火にくべても焼けそうもなく、水へ入れても溺れそうになく、懐中《ふところ》へ入れて抱きしめても、潰れもしなければ死にもしない。
 水も飲めば砂糖も食べる、そうして部屋の中を舞い遊ぶ、指を差し出せば指へも止まる、そうかと思うと幾日も幾日も、一つ所に静まっている。
 普通の蝶のように驚き易く、その上もなく敏感かと思うと、無生物のように鈍感でもある。
「奇怪な存在」と云わざるを得ない。
「だが一体この蝶は、雄蝶の方だろうか雌蝶の方だろうか?」これが小一郎には疑問であった。「もしこいつが雄蝶だとすれば、昆虫館から盗まれたものだし、もしもこいつが雌蝶だとすれば、昆虫館主が逃がしたものだ」しかし遺憾ながら小一郎には、雌雄の見分けが付かなかった。「昆虫館主の話によれば、翅に置いてある斑紋が、非常に大切だということだが、どうしてこんな斑紋が、そんなにまでも大切なんだろう?」――小一郎の手に入れた蝶の翅にも、地図のような斑紋が置いてあった。
「盗まれたという雄蝶の翅に、置いてあったという斑紋を、俺は昆虫館館主の部屋で、昆虫館館主によって見せられたが、その斑紋と非常に似ている。ではこの蝶は雄蝶だろうか? しかしその時昆虫館館主は、もう一匹の雌蝶の翅にも、そっくりの斑紋があると云った。ではこの蝶は雌蝶かも知れない。……俺は実際惜しいことをしたよ、あの時見せられた雄蝶の斑紋を、もっと詳しく見て置けばよかった。不幸にも俺は瞥見しただけだ。で、ハッキリとは覚えていない。で、この蝶の斑紋が、雄蝶の斑紋だとは云い切れない。そうして一方雌蝶の方は、俺は全然見ていない。だが」と小一郎は考えた。「雄蝶であろうと雌蝶であろうと、そんな事は結局どうでもいい。是非ともこの際必要なのは、もう一匹蝶を目付けることだ」
 ところがこの蛛を手に入れて以来、そうして道場を持って以来、次々に左のような奇怪なことが、小一郎の身の上に起こって来た。
(一)絶えず何者か小一郎の家を、深夜になると立ち廻る事。
(二)一回夜の往来で、何者か小一郎を襲った事。
(三)一回小一郎の不在中に、何者か小一郎の家を襲い、乱暴狼籍を極めた事。
(四)そのつど不思議な美人が現われ、小一郎を危難から救った事。
(五)敵の中にも美人がいて、それが指図をしていた事。



[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送