国枝史郎「神秘昆虫館」(24) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(24)

  24

 引っ包まれた小一郎は、既に覚悟は決めていた。何のビクとも驚くものか。例によって下段に太刀を付け、身を沈ませて構えたが、残念地の利が悪かった。背後は大川、引くことが出来ぬ。前には敵の二十人、揃って太刀を中段につけ、掛け声もかけず静まり返り、半円を作って寸から寸? ジリジリジリジリと寄せて来る。
「ちと手強い」と小一郎は、考えざるを得なかった。「木精《こだま》の森で切り合った、あの時の連中より強いらしい。じっと構え込んだ様子で解る。……ふふん例によって集五郎め、衆の真ん中に控えておる。こいつも今夜は懸命らしい。……さあてこれからどうしたものだ」考えがグルグル渦を巻く。桔梗様のことに気が付いた。と、カーッと血が湧いた。「桔梗様が江戸にいると云う。本当かしら? いるなら是非とも逢いたいものだ。どうともしてお探ししたいものだ。……」にわかに一式小一郎は、その場から遁れたいと思い出した。
「永生の蝶などどうでもいい。南部一味にくれてもいい。蝶さえ渡したら文句はあるまい。こんな奴らとかかりあい、傷でも受けたらつまらない。トッ放そうかな、永生の蝶を」
 その間も敵は逼《せま》って来る。
 中段に付けた敵の刀が、月光を吸ってキラキラと、鋩先《きっさき》を上下へ動かすので、無数に螢が飛ぶようだ。
 次第に半円が縮《ちぢ》まって来る。後へ後へと小一郎は、退かざるを得なかった。
「どうしたものだ、どうしたものだ!」小一郎は焦燥を覚えて来た。下段に引き付けた太刀構えが、だんだん上へ反ろうとする。
 と、その時小一郎の眼に、チラリと映ったものがある。敵勢の背後、家並の軒、月光の射さない一所に、じっとこっちを見詰めながら、スラリと立っている人影である。黒頭巾で顔を隠している。黒の振り袖を纏っている。裾が朦朧と暈《ぼ》けている。裾模様を着ているためらしい。まさしく女に相違ない。左の肩に生白く、懸けているのは何だろう? 袋のようなものである。
 と、そこから声がした。
「お放しなさりませ、永生の蝶を」
 その女が小一郎へ云ったのである。「冷泉華子でございます」
「ははあさてはこいつだな」咄嗟に小一郎は感付いた。「女方術師の蝦蟇《がま》夫人! ……放すかな、永生の蝶を!」
 その間もジリジリと敵の勢は、威嚇的に無言に逼って来る。そいつに連れて小一郎は、後へ後へ後へと下る。
「これはいけない、崖縁だ!」小一郎は総身汗ばんだ。片足の踵が大川の崖へ、今や半分かかったのである。もう絶対に引くことは出来ない。一足引けば転落だ。
 またも女の声がした。「お放しなさりませ、永生の蝶を」
「うむ」と坤いた小一郎は、グッと懐中へ手を入れたが、その手を抜くと空高く、投げた! 何かを! 黒々と!
 蝶だ! クルクルと月光を縫い、舞い去ろうとする! 舞い去ろうとする! とたんに女が進み出た。ポンと投げたは袋様の物で、ベッタリ地上へへたばる[#「へたばる」に傍点]と、何と生あるもののように、ムクムクと背中を持ち上げた[#「持ち上げた」に傍点]ではないか。続いて開いたは大きな口だ。と、そこからスラスラと、一筋の白布が濠気のように、空に向かって巻き上ったが、飛び去る蝶を追っかけた。
 何という卑怯だ、その一刹那に、南部集五郎は声も掛けず、翻然と小一郎へ躍りかかった。
「こやつ!」と叫んで小一郎は、キワドク受けは受けたものの、足を辷らせザンブリと南無三! 南無三! 大川へ落ちた。
 シ――ンと岸上静かである。南部の一味立ち去ったらしい。
 もがいているのは小一郎で、今や弱れようとしているのであった。小一郎は水練には達していた。しかし全身疲労《つかれ》ていた。転落する時腕を挫《くじ》いた。で、泳ぐことが出来ないのである。
「無念、死ぬのだ、もう駄目だ!」
 沈んでは浮かび、浮かんでは沈む。
 どこからも救いは来ないらしい。
 だがその時下流の方から、こんな掛け声が聞こえてきた。「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」
 つづいて現われたのは小舟である。一種異様な軽舟で、七人の男女が乗り込んでいる。櫂の数は六挺である。七福神の乗っている宝舟、そんなような形の舟である。船首《へさき》に龍の彫刻《ほりもの》がある。その先から総《ふさ》が下っている。月光に照らされて朦朧と見える。魔物のように速い速い。六人が櫂を漕いでいる。一人が梶を握っている。
 小一郎の側まで来た時であった。
「オッと止めたり、舟をお止め、人間一人アブアブと、土左衛門になろうとしているじゃアないか。お助けよ、お助けよ、何も功徳だ」こう云ったのは梶を握っていた女。
「合点」と一同答えた時には、舟はピタリと止まっていた。と、その舟から手が延びて、グーッと引き上げたは小一郎の体!
「さあ介抱は葦駄天だ」
「おいよ」と云うと一人の男は、小一郎の衣裳を絞ったが、
「やアいい男のお武家さんだ、弁天の姐《あね》ごが惚れなければいいが」
「何を云うんだよ途方もない」弁天と呼ばれた梶取りの女は、クックックッと笑ったが、「さあさあ漕いだり、お急ぎお急ぎ」エッサ、エッサ、エッサ、エッサと、舟、上流へ駛《はし》って行く。

 ちょうどこの頃のことである。大川の名が隅田川と変わり、向こうの岸は三囲社《みめぐりのやしろ》、こっちの岸は金龍山、その金龍山の一所に、川面へ突き出して造られた、一宇の宏大な屋敷があり、その屋敷の奥まった部屋で、しめやかに話している男女があった。
「そろそろ彼らの来る頃だが、まだ水門は開かないかな」こう呟いたは男である。百歳以上ではあるまいか? そう想われるほどの老人ではあるが、青年のように血色がよい。葵の紋服を纏っている。「それはそうとお前さんが、突然当家へ見えられた時には、俺もいささか驚きましたよ」
「相済みませんでございます」こう云いながら微笑したのは、昆虫館館主の娘であった。すなわち他ならぬ桔梗様であった。






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