国枝史郎「神秘昆虫館」(25) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(25)

  25

「いや全くお前さんが、突然ここへ見えた時には、私はいささか驚いたものだよ。がその代り久しぶりで、お前さんのお父さんの消息を知り、嬉しくもあれば懐しくもあった。だがどうもちょっと困ったな。娘のお前をさえ寄せ付けず、そんなにも酷《ひど》く憂鬱になり、部屋へ一人で閉じ籠り、研究に浮身をやつしているとは。……ははあそうか、大事な大事な、永生の蝶とかいうものを、二匹ともなくしてしまったので、それでそんなに変わったというのか。学者というものは変なものだな。変梃《へんてこ》な蝶をなくしたことぐらいで、気が変わるとは解せないよ。もっとも研究材料で、大事なものには相違あるまいがな……まあまあそれはそれとして、お前さんと逢えたのは有難い。遠慮はいらない遠慮はいらない。ここを自分の家だと思って、気随気儘に暮らすがいい。何と云っても私とお前とは、叔父さん姪さんの仲だからな。綺麗な姪さんがやって来たのだ。これまでは陰気過ぎたこの家も、これからは陽気になるだろう。……お前さんにとってもいいことだよ、三浦三崎の山の中などに、そんな虫だの獣だの、片輪者などと住んでいるよりはな。江戸へ来た方がずっといい。……と云って茫然《ぼんやり》遊んでいたでは、お前さんにしてからが退屈だろう。そこで何かを習うがいい。と云ってお父さんはあれほどの学者、したがってお前さんも学者だろう。だから、恐らく学問などは習う必要はないだろう。ひとつ反対《あべこべ》に弟子でも取って、お前さんの方で教授するかな。……いや待ったり他のことがある、生花や茶の湯を習うがいい。山の中にいたお前さんのことだ、そういうことは知らないだろう。茶の湯、生花、これからお習い! え、何だって、知っているって? 痩せ我慢はいけない、気取ってはいけない。山家育ちのお前さんなどが――と云っても大変別嬪だが、何の茶の湯や生花などを、知っていることがあるものか。え、本当に知っているって? ふうん、そうか、それは感心。そうかも知れない。そうかも知れない、打ち見たところ上品で、女一通りの芸や作法ほ、どうやら心得ているように見える。何さ何さ一通りどころか、十二分に心得ているらしい。とするとどうも困ったな。何を習ったらいいだろう? おおそうだ、いいものがある、お習いお習い、泥棒をね」
 葵ご紋の威厳のある武士《さむらい》は、能弁に愉快そうに喋舌って来たが、とうとうこんなことを云い出してしまった。泥棒を習えというのである。
 これにはさすがの桔梗様も、驚いたかというに驚かなかった。
 したたるような美しい眼と、恍惚《うっとり》するほどの美しい声とで、負けずに愉快そうに云ったものである。
「叔父様、結構でございますこと、習いましょうねえ、泥棒を」
「え?」とこれには叔父の方が――葵ご紋の武士の方が、あべこべに仰天したらしい。「本当かな、習う気かな、泥棒という商売を?」
「はいはい妾《わたし》習いますとも、大喜びで習いますとも。あの、必要がございますので」桔梗様は真面目に云ったものである。
「これはこれは」と葵ご紋の武士は、いよいよ胆を潰したらしい。「度胸がいいの。偉い度胸だ。どんな必要かな? 云ってごらん?」
 すると桔梗様は一層真面目に、それでいて途方もなく愉快そうに、ズケズケこんなことを云い出した。
「お探ししたい人がございますの、綺麗な綺麗なお侍さんなの。少し皮肉ではございますが、そこがまた大変よいところで、可愛らしいのでございますの。……云い交わした人なのでございます、恋し合った方なのでございます。……たしか只今は江戸住居《ずまい》で。どうともしてお探しし、お逢いしたいのでございますの。……ようございますわね、泥棒は。どこへでも勝手に忍び込め、どんな方とも逢うことが出来、ほんとに何て結構なんでしょう。でもねえ叔父様」と甘えた声で、「よい先生がございましょうか、上手に泥棒をお教えになる」
「待ったり」と叔父様は――葵ご紋の武士は、眼を円くすると手を振った。「私は知らぬよ、こんな娘は! 驚きましたね、二の句も継げない。どうも当世の娘っ子は、油断も隙も出来ないの。叔父さんを前にちゃアンと据えて、恋人があるというのだから。とんだ姪さんを持ったものさ。私は謝罪《あや》まる、私は謝罪まる。……そうは云っても面白いの。やっぱり血統は争われない、反骨稜々侠気充満、徳川宗家に盾突いて、日本は狭いと云うところから、海を渡って異国へ行った、我々のご先祖の血液が、お前のお父さんにもこの私にも、お前さんにも通っているらしい。……うむ!」と云うとどうしたものか、葵ご紋の威厳のある武士は、にわかに不思議な表情をしたが、すぐに磊落に笑い出した。「先生かな、泥棒さんの。いるともいるとも、ここにいるよ」云うと一緒に手を延ばし、手首を曲げると人差し指を延ばし、ポンと自分を指さした。それから云ったものである。
「大泥棒! 異国をさえも盗む! そういう泥棒の先生がな」
 ――でまたそこで磊落に笑った。






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