国枝史郎「神秘昆虫館」(26) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(26)

  26

 磊落に笑った大きな声に、吃驚《びっくり》したというように、床に活けてあった牡丹の花が、一片《ひら》ポロリと床の上へ零れた。
 顔輝《がんき》筆とも思われる、蝦蟇仙人と鉄拐仙人、二人を描いた対幅が、床一杯に掛けられてある。それが名筆であるだけに、三十畳ぐらいは敷けるであろう。そのくらい広い部屋の中に、一種云われぬ蒼古な妖気が、陰々として漂っている。
 実際それは名筆であった。二人とも活けるがようであった。二人ながら乱髪である。二人ながら跣足《はだし》である。そうして二人ながら襤褸《ぼろ》を纏い、二人ながら岩に腰かけている。ただし、一方蝦蟇仙人は、左手に躑躅《つつじ》の花を持ち、右肩に蝦蟇を背負っている。白味を帯びた巨大な蝦蟇で、まるで大きな袋のようである。パックリ開いた醜悪の口から、布のように見える白気を吐き、飛び出した眼を輝かせている。一方鉄拐仙人は、腰に大きな瓢《ひさご》を付け、両足の間に杖を挿み、左手で奇形な印を結び、すぼめた[#「すぼめた」に傍点]口からこれは黒気を、一筋空へ吐き出している。
そうして黒気の行き止まりの辺りに、同じ姿の鉄拐仙人が、豆のように小さく走っている。
秘術を行なっているところだ。鉄拐仙人には髷があり、蝦暮仙人には髷がない。で前者は老人に見え、そうして後者は老婆さんに見える。
 二人ながら物凄くいやらしい。
 ちょっとの間部屋中静かであった。
 対に立ててある雪洞《ぼんぼり》の燈が、蒔絵の脇息を照らしている。それに悠然と倚っている、葵ご紋の武士の顔は、昆虫館主人と非常に似ている。広い額、窪んだ眼窩、極めて高い高尚な鼻、しかし異ったところもある。昆虫館主人は白髪だのに、こっちは艶々しい黒色である。昆虫館主人の眼と来ては、霊智そのもののような眼であったが、こっちの眼は意志的英雄的である。昆虫館主人よりも身長《たけ》が高く、そうして一層肥えてもいる。健康そのもののような体格である。昆虫館主人は学究として、あくまでも真面目、あくまでも真剣、しかるにこっち葵ご紋の武士は、酒々落々としたところがあり、人を食ったようなところがある。
 だが一体葵ご紋の武士は、何という姓名を持っているのだろう? 世間の人達は敬称して、隅田のご前と云っている。葵の紋服を着ている以上、将軍家の連枝には相違あるまい。
 隅田のご前を前に置き、端然と坐っている桔梗様と来ては、清浄で、美しくて、自由で無邪気で、いかにもいかにも処女というものを、掬い固めたような俤がある。
 この二人の対照は、全く一幅の絵と云っていい。
 まだ二人は黙っている。
 と、どこから来たものか、四方雨戸をとざしてあるのに、一匹の火捕《ひと》り虫が飛んで来た。バタバタバタバタと雪洞へ中《あた》る。
「遅いの」と不意に隅田のご前は、独り言のように呟いた。
 それが桔梗様の気にかかったらしい。
「誰をお待ちでございます!」
「ああ待ち人かな、泥棒さん達だよ」隅田のご前は道化出した。
「私はな、大変な大泥棒だ。でたくさん手下がある。その手下を待っているのだよ」無邪気な可愛い桔梗様を、嬲ってみるのが面白いのらしい。
「おやおやさようでございますか」桔梗様は一向驚かない。
「妾もお待ち致しましょう」
「ご用でもあるのかな、私の手下に」
「はいはいたくさんございますとも、参りましたらとっ[#「とっ」に傍点]捉まえ、忍び込みの術を教わります」
「あッ、話はそこへ行くのか、忍び込みの術を教わって、その恋しいお侍さんを、探しに行こうというのだの」
「はいはいさようでございますとも。でもねえ叔父様、実を申せば、もう一つ大切なご用があって、探しているのでございますの。その一式様というお侍さんを」
「ほほう」とご前眼を円くした。「その恋男のご姓名は、一式様というようだの」
「一式小一郎様と申します」
「で、何かの、大切の用とは?」どうやら興味を持ったらしい。
「お父様からお預りをした、大事な大事な大事な物を、お渡ししたいのでございます」
「何?」と云うと隅田のご前は、いくらか驚いた様子があった。「それでは何かの、お前のお父様も、承知しておられるご仁かの、その一式という人物は?」
「私達の住居の昆虫館へ、訪ねておいでくださいました時、お父様もお逢いでございました。そうしてお父様もそのお方を、大変好かれたのでございます」
「ふうん」と云ったが真面目になった。「私はそうとは知らなかったよ、そんな恋人の話など、お前のデタラメと思っていたよ。うむうむそうか、本当の話か。で、何かの、大事なものとは?」
「はいこれでございます」
 何か帯から出そうとした時、隅田川の方から声がした。
「エッサ、エッサ、エッサ、エッサ」それはこう云う声であった。
 そうしてこの声が次第に近付き、隅田のご前の屋敷の前で、にわかにプッツリと切れてしまい、つづいて幽《かす》かではあったけれど、水門の開く音がした時から、この物語の局面は、新しく展開されることになった。
 まず隅田のご前様が「来たな」と云うと立ち上り、それから桔梗様へ云ったものである。
「お前もおいで! 度胸がある。見せて置いてもいいだろう。……紹介《ひきあわ》せて置こう、変わった奴らを。無頼漢《ならずもの》どもだが ためにもなる奴らだ」
 で、部屋から廻廊へ出た。云われるままに立ち上り、桔梗様が後から従った。
 少し行くと階段になる。螺旋形をした階段である。下り切った所に池があった。隅田の川水を取り入れて、作ったところの池らしい。小さい入江! こう云った方がいい。小船渠《ドック》! こう云った方がいい。水がピチャピチャと石段を洗い、小波をウネウネと立てている。石段の左右に龕《がん》がある。青白い燈火《ひかり》が射している。その燈火に照らされて見えるのは、七福神の宝船、それに則って作られた船と、満載されてある武器弾薬と、そうしてそれへ乗り組んでいる、七人の異様な水夫《かこ》達であった。
 いやもう一人人がいた。それは水に濡れた侍であった。
「あッ、あなたは一式様!」
「おっ、これは桔梗様!」






[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送