国枝史郎「神秘昆虫館」(27) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(27)

  27

 さてその翌日のことである。
 一式小一郎は自分の家の、自分の部屋に籠っていた。襖を締め切り黙然と坐り、じっと膝の上を見詰めている。西向きの窓から夕陽が射し、随分部屋は熱いのに、そんなことには無感覚らしい。視線の向けられた膝の上に、銀製の小さな鍵がある。だが小一郎の表情から推せば、鍵について考えているのではなく、別のことを考えているらしい。
 道場の方からポンポンと、竹刀の音が聞こえてくる。弟子達が稽古をしているのであろう。
 お勝手の方からコチンコチンと、器物《うつわもの》のぶつかる[#「ぶつかる」に傍点]音がする。君江が洗い物をしているのであろう。
「気の毒なものだな、あの君江は」小一郎はふっと呟いた。
「俺は逢ったのだ、桔梗様に。本当の本当の恋人に。で、君江は正直に云えば、俺には不用の人間になった。邪魔な人間になったともいえる。……がそれはそれとして、全く昨夜は意外だったよ。南部に襲われ蝶を逃がし、大川の中へ転がり落ち、負け籤《くじ》ばっかり引いたかと思うと、今度は恋人の桔梗様と逢う。塞翁が馬っていうやつさな」微笑したいような気持になった。「それにさ随分変な人間に、一時に紹介されたものさ。隅田のご前という凄いような人物や、七人の異様な無頼漢達に。……屋敷の構造も変なものであった。……悪人の住家《すみか》ではあるまいかな? あんな所へ桔梗様を置いて、はたして安全が保たれるかな?」これが小一郎には不安であった。だがしかしすぐに打ち消してしまった。「葵の紋服を召していた。では隅田のご前という人物は、高貴な身分に相違ない。それから桔梗様がその人を、叔父様々々々と呼んでいた。とすると血筋を引いているのだろう。それでは安全と見てもいい」
 小一郎の心へは次から次と、昨夜のことが思い出された。
 船から上げられて介抱されたこと、濡れた衣裳を干して貰ったこと、別室で桔梗様と二人だけで、しばらく話を交わせたこと……
「昆虫館でのお約束を、反故にしたのではございません」こう桔梗様が云ったこと。「父は憂鬱になりました。『俺は一人で研究したい。娘よ、お前は江戸へ行け! 人間の世を見て来るがいい』こう云って妾《わたし》を山から出し、人を付けて江戸へ送ってくれました」こう桔梗様が云ったこと。「その節父が申されました一式氏は人物である。あのお方とお前との交際を、私は好んでお前へ許す、ついてはあの方を探し出し、この鍵を是非とも手渡しておくれ。雌雄二匹の永生の蝶を、一式氏が手に入れて、もしそれが子供を産んだ際には、この鍵が役に立つかも知れない』――で、お渡し致します」こう桔梗様が云ったこと。等、等、等を思い出した。「一式氏とやら、お暇があったら、時々お遊びにおいでなされ。があらかじめ申し上げて置く、拙者の屋敷の構造や、拙者の行動に関しては、絶対に世間へ洩らされぬように。うち見たところ貴殿には、一個任侠の大丈夫らしい。その中《うち》拙者の計画や、心持などもお話し致す。時々遊びに参られるよう。それにどうやら姪の桔梗が、そなたを愛しておるようで、遊びにおいでなさるがよい」――隅田のご前という人が、云ったことなども思い出した。
「時々どころか毎日でも行って、桔梗様と話をしたいものだ」小一郎は恋しくてならなかった。
「今日も、これから行ってやろう」
 フラリと立つと大小を差した。だが何となく気が咎める。「気の毒だな、君江には」そこでこっそり[#「こっそり」に傍点]足音を盗み、玄関へかかると雪駄《せった》を穿き、「まるで間男でもするようだな」苦笑しながらも門を潜り、うまく君江にも目付からずに、夕陽の明るい町へ出た。
 差しかかった所が大川端で、隅田の屋敷の方へ、急ぎ足に歩き出した。夕暮時の美しさ、大川の水が光っている。そこを荷舟が辷っている。対岸の白壁が燃えている。夕陽を受けているからである。鴎が群れて飛んでいる。舞い上っては舞い下りる。翼が夕陽を刎ね返している。甍《いらか》を越して煙りが見える。どうやら昼火事でもあるらしい。人々の罵る声がする。「火事だ火事だ! 景気がいいな!」間もなく煙りが消えてしまった。小火《ぼや》で済んだに相違ない。渡し船には人が一杯である。橋にも通る人が一杯である。物売りの声々が充ちている。江戸の夕暮は活気がある。
「ひどく俺は幸福だよ」小一郎はこんなことを呟いた。「桔梗様にも愛されているし、君江どん[#「どん」に傍点]にも愛されている。色男の果報者というやつさ。……だが待てよ」と考え込んだ。「いかに何でもこいつ[#「こいつ」に傍点]はいけない。桔梗様とは昨夜逢ったばかりだ。それだのにノコノコ今日行っては、あんまり俺がオッチョコチョイに見える。大人物らしい隅田のご前にも、裏を見られないものでもない。それにさ、幸福というものは、そう続け様に求めても、そう続け様に来るものではない。うかうか図に乗って逢いに行って、変な顔でもされた日には、とても助からないことになる。それにさ、幸福というものは、その幸福を抱きしめて、一人で味わうことによって、二倍の幸福を感ずるものだ。今日は行くのは止めにしよう。それより静かな所へ行き、楽しそうなことを考えよう」
 そこで小一郎は横へ反れた。
 来た所が品川の海岸で、この頃はすっかり日が暮れて、月が真ん円《まる》く空へかかった。もうほとんど人通りがない。宛なしにブラブラ歩いて行く。海では波も静からしい。青葉の匂いが馨《かんば》しい。
「幸福だな、幸福だ」
 呟きながら彷徨《さまよ》って行く。
 だがはたして小一郎の幸福は、幸福のままで済んだだろうか? 鮫洲《さめす》の宿までかかった時――一挺の駕籠が江戸の方から、飛ぶように走ってやって来て、小一郎の傍を駈け抜けて、そうして夜の東海道を物怪《もののけ》のように走り去った時――そうしてその駕籠から何物か、地上ヘポンと落とされた時――そうしてそれを小一郎が、不思議に思って拾い上げた時、彼の幸福は覆えされてしまった。
 拾い上げたのは簪《かんざし》であった。脚に紙片が巻き付けてある。それに文字が書かれてある。恐らく小指でも食い切ったのだろう。そうしてその血で書いたのだろう、生々しく赤くこう書かれてあった。
「悪者に誘拐されております。どなたかお助けくださいまし」そうして「桔梗」と記してあった。
「ム――と呻いた小一郎は、ブルッとばかりに顫えたが、「駕籠待てエーッ」と思わず大音に呼んだ。しかしその駕籠はついに馳せ去り、もちろん姿は見えなかった。気勢で呼んだまでである。
「これはこうしてはいられない!」
 大小の鍔際を抱えるように、グッと握って胸へあてたが、片手で裾を端折ると、さながら疾風が渦巻くように、月夜に延びている街道を、走り下ったものである。





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