国枝史郎「神秘昆虫館」(29) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(29)

  29

 声に応じて六人の男は、颯と片手を差し出したが、肩と肩とをすぐ組んだ。ガッシリ手輿が築かれたのである。
「お乗んなせえまし。さあ姐ご!」
「あいよ、あいよ、ソレ乗るよ」
 裾を翻めかすと燃え立つ蹴出しだ、火焔が立つかと思ったが、弁天松代ちゃアんと[#「ちゃアんと」に傍点]乗った。
「急いでおやりよ! さあおやり!」
「おっと合点」
「エッサ、エッサ」
 こんな場合にも愉快そうに、こんな場合にも仲がよく、月光を蹴散ちし走り出した。

 ちょうどこの頃のことである。全然別の方角で、別の事件が起こっていた。
 ここは赤坂青山の一画、そこに一宇の大屋敷がある。大大名の下屋敷らしい。宏壮な規模、厳重な構え、巡らした土塀の屋根を越し、鬱々と木立が茂っている。
 御三卿の一方田安中納言家、そのお方の下屋敷である。
 その裏門が音なく開き、タラタラと一群の人数が出た。黒仕立てに黒頭巾、珍らしくもない密行姿、いずれも武士で十五六人、ただしその中ただ一人だけ、黒小袖に黒頭巾、若い女が雑っていた。みんなが尊敬するところを見ると、これら一群の支配者らしい。身長《せい》高く痩せてはいるが、一種云われぬ品位がある。鬼気と云った方がいいかも知れない。あるいは妖気と云うべきかも知れない。縹渺としたところがある。裾の辺りが朦朧と暈《ぼ》け、靄でも踏んでいるのだろうか? と思わせるようなところがある。
 一挺の駕籠が舁ぎ出された。
「鉄拐ご夫人、お召しなさりませ」
 一人の武士が会釈した。
 すると領いたが乗ろうともせず、駕籠の上へ片手を載せたまま、女方術師鉄拐夫人は、頸《うなじ》を反らせると空を見た。
「とうとう後手へ廻されて、永生の蝶一匹を、一ツ橋家へ取られたが、今度はどうでも先手を打ち、あの桔梗という森の娘を、こっちへ奪って来なければならない。だが迂闊に立ち廻ると、今度も煮え湯を飲まされそうだよ。現に攫われてしまったんだからねえ」
 心配そうに呟いた。
「だが行先は解っている。それだけがこっちの付け目だろうさ。それもさ街道を辿って行けば、随分時間もかかるだろう。近道を行けば何でもない。柵頼《さくらい》々々」と声をかけた。
「は」と云って進んだのは、今会釈をした武士であった。
「神奈川の宿から海の方へ、ずっと突き出た芹沢の郷、そこまで近道を走っておくれ」
「かしこまりましてござります」
「道の案内は妾がしよう、ああそうだよ。駕籠の中からね。さあそれでは戸をお開け」
 コトッと駕籠の戸が開いた隙から、スルリと入った女方術師、
「それではおやり、足音を立てずに」
 駕籠を包んだ田安家の武士達、トットットッと、走り出したが、見当違いの玉川の方へ、駈け去ってやがて見えなくなった。
 月ばかりが後を照らしている。
 シ――ンと界隈静かである。
 いやいや界隈ばかりでなく、江戸内一帯静かであろう。
 敢て江戸内ばかりでなく、日本国中夜のことだ。少くも昼間よりは静かだろう。
 がしかしそれは表面だけのことで、裏面においては昼間よりも、さらに一層夜だけに、罪悪が行なわれているかもしれない。

 まさしく罪悪が行なわれていた。
 芹沢の郷の海岸に、不思議な建物が立っていた。
 その中で行なわれていたのである。
 その建物の珍奇なことは!






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