国枝史郎「神秘昆虫館」(30) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(30)

  30

 海に臨んで造られた館は、一口に云えば唐風であった。幾棟かに別れているらしい。鶴の翼を想わせるような、勾配の劇しい瓦屋根が、月光に薄白く光っている。しかし館は土塀に囲まれ、その上森のように鬱々とした、庭木にこんもり取り巻かれているので、仔細に見ることは出来なかった。
 館の一方は海である。岸へ波が打ち上げている。白衣の修験者でも躍るように、穂頭が白々と光っている。館の三方は曠野である。木立や丘や沼や岩が、月光に濡れて静もっている。遥か離れて人家がある。みすぼらしい芹沢の里である。
 と、その時里の方から、一挺の駕籠が走って来た。二三人の武士が守っている。館の方へ走って来る。
 その裏門まで来た時である、内と外とで二声三声、問答をする声がした。
 と、門が音なく開き、音なく駕籠が辷り込んだ。
 後に残ったは月ばかりである。蠢《うごめ》くものの影さえない。館からも何の物音もない。沼で寝とぼけた水鳥が、ひとしきり羽音をバタバタと立てたが、すぐにそれも静まってしまった。
 だが間もなく人影が、ポッツリ丘の上へ現われた。館の方を見ているらしい。と、丘を馳せ下った。
 月に曝された顔を見れば、他ならぬ一式小一郎であった。
「確かにここへ入ったはずだ」
 土塀に沿って小一郎は、館の周囲を廻り出した。
「うむここに裏門がある」
 そっと裏門を押してみたが、ゆるごう[#「ゆるごう」に傍点]とさえしなかった。で、またそろそろと歩き出した。やがて表門の前へ出た。押してみたがやっぱりゆるぎさえしない。でまたそろそろと歩き出した。もうどこにも出入口はない。
「さてこれからどうしたものだ?」土塀に体をもたせかけ[#「もたせかけ」に傍点]、一式小一郎は考え込んだ。
「桔梗様を攫った駕寵の姿を、やっと神奈川の宿外《はずれ》で目付け、後を追っかけてここまでは来たが、こんな不思議な建物の中へ、引き込まれようとは思わなかった。一体どういう建物なんだろう?」
 だが酷《ひど》く胸が苦しかった。非常に息切れがするのである。走り続けて来たからである。
「休もう、万事はそれからだ」
 地面へ坐って胡座《あぐら》を組み、小一郎は心を押し静めた。
「いやこうしてはいられない」小一郎はにわかに立ち上った。
「どんな危険が桔梗様の上に、ふりかかっていないものでもない。館の中へ忍び込み、何を置いても様子を見よう」
 土塀へ体を食っ付けたが、武道で鍛えた身の軽さ、一丈以上の高さを飛び、ポンと向こう側へ飛び下りた。
 飛び下りたが音さえ立てなかった。胸をピッタリ地面へおっつけ、腹這いになって様子を見た。庭木が真っ暗に繁っている。ところどころに斑のように、葉漏れの月光が射している。ずっと奥深い正面に、建物が一つ立っている。
「まずあれ[#「あれ」に傍点]から探ってみよう」
 そこでソロリと立ち上り、小一郎は忍びやかに歩き出した。
「役目は終えたというものさ」不意に人声が聞こえてきた。いかつい[#「いかつい」に傍点]男の声である。
「有難い役目ではなかったよ」これはゾンザイな声であった。
「美人誘拐というのだからの」
「それもさ」ともう一人の声がした。「口を開かせて秘密を云わせ、云わせた後では南部氏が、手に入れようというのだからの」
 三人の人影が現われた。
「あれほどの美人を手に入れる、ムカムカするの、うらやましくもある」
「詰所へ帰って酒でも飲もう」
 三人ながら武士であった。広大な庭の反対側に、別の建物が立っていたが、そこが彼らの詰所と見える。木立を縫って築山を越して、小一郎が窺っているとも知らず、庭下駄の音をゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]に立て、三人そっちへ歩いて行く。
 こいつを聞いた一式小一郎が、怒りを心頭に発したのは、まさに当然というべきであろう。
「さては桔梗を攫ったのは、南部集五郎の一味だったのか。憎い奴らだ、どうしてくれよう」
 平素《ふだん》は思料深い小一郎ではあったが、怒りでそれさえ失ってしまった。
「三人血祭りに叩っ切り、その上で家内へ切って入り、桔梗様をこっちへ取り返してやろう」
 身を平《ひら》めかすと背をかがめ、暗い木陰を伝わったが、行手へ先廻りをしたのである。
 築山があって築山の裾に、石楠花《しゃくなげ》の叢《くさむら》が繁っていた。無数に蕾を附けている。陰へ身を隠した小一郎は、刀の鯉口をプッツリと、切り、ソロリと抜くと左手を上げ、タラリと下った片袖の背後《うしろ》へ、右手の刀を隠したが、自然と姿勢が斜めになる、鐘巻流での居待ち懸け、すなわち「罅這《こばい》」の構えである。
「来い!」と心中で叫んだが、「一刀で一人! 三太刀で三人! 切り落とすぞよ、アッとも云わせず!」
 ムッと気息をこめた時、ヒョッコリ一人現われた。
 それを見て取った小一郎は、斜めの姿勢を閃めかし、正面を切ると肘を延ばし、一歩踏み出すと横払い! 四辺が木立《あたり》で暗かったので、ピカリとも光りはしなかったが、狙いは毫末も狂わない、耳の下からスッポリと、一刀に首を打ち落とした。
 と、切られたその侍であるが、そこだけは月が射していた、その中でちょっとの間立っていたが、やがて前仆れに転がった。
 もうこの頃には小一郎は、刀をグルリと背後へ廻わし、元の位置へ返ってひそまっていた。
「おいどうした?」
 と云う声がして、二人目の人影が現われた。
「躓《つまず》いたのか? 転んだのか? 生地がないなあ、起きろ起きろ」
 トンと立ち止まって同僚の死骸を――死骸とも知らず見下した時、全く同じだ、小一郎は、一歩踏み出すと、肘を延ばし、颯《さっ》と一刀横っ払った。これも同じだ、首を刎ねられた敵は、そのまま一瞬間立っていたが、すぐ前仆れにぶっ[#「ぶっ」に傍点]仆れた。
「あッ」と叫んだは三番日の武士で、「曲者でござる! 狼籍者でござる!」
 身を翻えして逃げようとした。
 猛然と飛び出した小一郎は、全身を月光へ浮かべたが、
「騒ぐな」
 と抑えた辛辣の呼吸! とたん太刀を振り冠り、脳天からザックリと鼻柱まで、割り付けて軽く太刀を引いた。
 プーッと腥《なまぐさ》い血の匂い! その血の中に三つの死骸が、丸太ン棒のように転がっている。
 見下ろした一式小一郎は、ブルッと体を顫わせたが、血顫いでもあれば武者顫いでもあった。
「さあ三人、これで退治た、……桔梗様は? 桔梗様は?」
 血刀を下げて小一郎が、館の方へ走ろうとした時、詰所らしい建物の雨戸が開き、数人の武士が現われた。屋内から射す燈火《ともしび》で、ぼんやりと輪廓づけられている。
「騒々しいの、何事でござる」
 一人の武士が声をかけた。衆の先頭に身を乗り出し、縁側の上に立っている。まさしく南部集五郎であった。
 早くも見て取った小一郎は、新しく怒りを燃え立たせたが、「集五郎!」とばかり走り寄った。「拙者だ、拙者だ、一式小一郎だ! ……卑怯姦悪未練の武士め! よくも桔梗様を誘拐《かどわか》したな! 出せ出せ出せ! 桔梗様を出せ!」
 血に塗られた一竿子忠網を、突き出すとヌッと迫り詰めた。
「おっ、いかにも汝《おのれ》は一式! やあ方々!」と集五郎は、仰天した声を張り上げたが、「一式小一郎、田安家の家臣、我々の秘密の道場へ、侵入致してございますぞ! 出合え出合え! 打って取れ!」
 幾棟か館が建っている。その幾棟かの館の戸が、声に答えて蹴放され、槍を持った武士、半弓を持った武士、捕り物道具を持った武士が、ちょうど雲でも湧くように、群れてムクムクと現われて、小一郎をおっ取り囲んだのは、実にその次の一瞬間であった。
「しまった!」と小一郎は呻いたが、要害さえも解っていない、敵は目に余る大勢である、飛び道具さえ持っている、どうする事も出来なかった。
「ううむ、残念、軽率であったぞ」
 摺り足をして後退《あとじ》さる。
 築山を背負い、木立を楯に、膝折り敷いて下段の構え、小一郎は備えは備えたものの、どうにも勝ち目はなさそうである。
 月が明るいので敵勢が見える。自分の姿も見えるだろう。
 とパッチリ音がした。すなわち絃返りの音である。敵の一人が射たらしい、征矢《そや》が一本月光を縫い、唸りを為《な》して飛んで来た。
 際どく飛び違って小一郎は、刀を上げて払ったが、すぐに続いてもう一本!
 あぶない、あぶない、あぶない、あぶない! ……だがこの時リーンという、微妙な音色の聞こえたのは、一体どうしたというのだろう?








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