国枝史郎「神秘昆虫館」(32) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(32)

  32

 釜の横に立っていた女の彫像、それが物を云ったのである。いやいや彫像ではなかったのであった。蝦蟇夫人事華子なのであった。
 桔梗様が気絶から蘇甦(よみがえ)るのを、それまで待っていたのらしい。
 と、華子は一足出た。閉じていた眼が見開かれている。結んでいた口が綻びている。眼には針のような光がある。捲くれた唇から見える歯にも、刺すような冷たい光がある。
 と、リーンと音がした。手に持っていた黄金の杖を、石畳の床へ突いたのである。
「昆虫館館主のお嬢様の、桔梗様へお訊ね致します。雌雄二匹の永生の蝶の、その一匹は手に入れました、さようでございます、この華子が! もう一匹の蝶のありか[#「ありか」に傍点]を、さあさあお教えなさりませ」
 またも一足踏み出して、またも黄金の杖を突いた。と、リーンと美しい音色が、部屋へ拡がったものである。
 事の意外に桔梗様が、ポッカリとその口を無邪気に開け、ポッカリとその眼を無邪気に見張り、しばらく物の云えなかったのは、当然なことと云わなければならない。
 もちろん返辞はしなかった。もちろん微動さえしなかった。呆然見詰めているばかりであった。
 この桔梗様のそういう態度は、見ようによっては図々しくも、また大胆不敵にも見える。
 それが華子を怒らせたらしい。俄然態度を変えたものである。
「オイ」と云ったが、その声は、優しい女の声ではなく、残忍な悪婆の声であった。「処女(おぼこ)に似合わず図々しいの、フフンそうか、そう出たか、よろしいよろしいそう出るがいい。が、すぐにも後悔しよう、顫え上るに相違ない、悲鳴を上げるに相違ない、そうして許しを乞うだろう、見たようなものだ、見たようなものだ! まず!」
 と云うと冷泉華子は、そろそろそろそろと黄金の杖を、斜めに上へ振り上げた。
「打ちはしないよ。何の打とう、もっともっと凄いことをする。……ご覧!」
 と今度は嘲笑った。と、クルリと身を廻し、釜の方ヘスルスルと寄ったかと思うと、振り上げていた杖を斜かいに、グーッと釜の中へ突っ込んだ。瞬間湯気が渦巻いたが、すぐに杖を引き出した。尖端から滴たったは水銀色の滴(しずく)で石畳へ落ちたと見る間もなく、どうだろう石畳の一所へ、小穴が深く穿(うが)たれたではないか! 水銀色の滴には、世にも恐ろしい力強い、腐蝕作用があるのらしい。
 と、華子であるが腕を延ばすと、スーッと杖を突き出した。桔梗様の顔から一尺のこなた、そこまでやると止めたものである。
「穴が穿(あ)きましょう、奇麗な顔へ! 鉛を変えて黄金とする、道教での錬金術、それに用いる醂麝(りんじゃ)液、一滴つけたら肉も骨も、海鼠(なまこ)のように融けましょう、……さて付ける、どこがいい? 額にしようか頬にしようか? 眼につければ眼が潰れる、鼻へ付ければ鼻がもげる[#「もげる」に傍点]、耳へ付ければ耳髱(みみたぼ)が、木の葉のように落ちてしまう! さあさあさあ、それそれそれ!」
 そろり[#「そろり」に傍点]と杖を突き出した。距離を五寸に縮めたのである。
「お云い!」と華子はそこで云った。「お前は昆虫館館主の娘、蝶のありか[#「ありか」に傍点]を知っているはずだ! もう一匹、さあどこだ?」
 そろそろそろそろと杖を出す。その杖の先と桔梗様の顔と今にも触れ合おうとする。杖の先が顫えている。と一滴その先から、ポタリと滴が床に落ちた。幽かながらもジーッという音! ポーッと立ったは糸のような煙り! 小穴がまたも開いたものである。
 怪奇な光景と云わざるを得ない。
 龕から射している他界的の光、その中に立っている女方術師、背後(うしろ)で燃えている唐獅子型の火炉、その上に滾(たぎ)っている巨大な釜、……そうしてキラキラキラキラと、黄金の杖が輝いている。そうしてその杖の尖端から、水銀色の滴が落ち、落ちると同時に煙りが立ち、碁盤形の石畳へ穴を穿ける。
 怪奇な光景と云わざるを得ない。――
 桔梗様には夢のようであった。魘(うな)されていると云った方がいい。何が何だか解らなかった。解っているのは次のことであった。
 夕方叔父の屋敷から出て、隅田の流れを見ていると、突然背後から猿轡(さるぐつわ)を噛まされ、おりから走って来た駕籠に乗せられ、誘拐(かどわか)されたということである。誘拐されたと感付いたので、小指を食い切り血をしたたらせ、懐紙へそのこと認めて、持物へそれを巻き付けて、幾個(いくつ)か落としたということである。








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