国枝史郎「神秘昆虫館」(33) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(33)

 33

「それでは妾(わたし)を誘拐したのは、雌雄二匹の永生の蝶々の、ありかを云わせようためだったのか。……でも妾はありかは知らない。雌蝶の方はお父様が、昆虫館から放してしまった」――で桔梗様は当惑した。と云って黙ってはいられなかった。いつまでも黙っていようものなら、杖の先で顔を突かれるだろう。突かれたら顔へ穴が穿(あ)こう。トロトロに顔が融かされよう。
 そこで桔梗様は云ったものである。
「存じませんでございます」それから正直に云いついだ。「雌雄二匹の蝶の中、雄蝶は盗まれてしまいました。随分探しましたが、目つけることは出来ませんでした。雌蝶の方はお父様が、手放してしまったのでございます。……雌雄二匹の永生の蝶々、只今どこにおりますや、存じませんでございます。……」それから嘆願するように、「叔父様が待っておりましょう、家へお帰しくださいまし。妾何にも悪いことなど、致した覚えはございません。どうぞ虐(いじ)めないでくださいまし。本当に知らないのでございます。何にも知らないのでございます。決して嘘など申しません。どこに蝶々がおりますやら、本当に知らないのでございます」
 偽りのない態度である。偽りのない云い方である。そうして沈着(おちつ)いた様子である。
 しかしそういう一切のものは、反対に見れば反対にも見られる。すなわち図太く見られるのである。
 女方術師冷泉華子はどうやら反対に見たらしい。
「嘘をお云いよ!」と一喝した。とたんに引いたは黄金の杖で、斜めに上げると釜の中へ、再びボーンと突っ込んだ。引き上げると滴る水銀色の滴! と、その滴をしたたらせたまま、ズーッとその先を突きつけた。「お云い!」と云ったが憎さげである。「一匹逃がしたのは本当らしい。それを手に入れたのがこの妾だ! で、それは信じよう。盗まれたなどとは信じられない。そう甲斐撫でに盗まれるような、そんな永生の蝶でもなく、それにまた蝶を盗まれるような、ヤクザな館主でもないはずだ! お聞き!」と云うと歯を剥いた。惨酷に刺すように笑ったのである。「お前の父親昆虫館館主は、無双の学者で恐ろしい人物、唯一の証拠は最近まで、昆虫館のあり場所を、知らせなかった一事でも知れる。何の貴重な永生の蝶を、他人に盗まれることがあろう。親子ひそかに巧らんで、どこかへ隠したに相違ない。お云い!」
 と云うとスルスルと、黄金の杖を突き付けた。と滴がポッツリと落ち、ボーッと白煙が立ち上ったが、小穴がまたも出来たものである。
 桔梗様は黙っている。ただ杖の先を見詰めている。云いたいにも云うことがないのである。
 端然として動かない。
 波の音が聞こえてくる。滝の落ちる音が聞こえてくる。依然部屋内は静かである。
 と、どうしたのか冷泉華子は、ガラリと態度を一変した。
 まず突き付けた杖を引き、片膝を突くと首を延ばし、愛想笑いを眼に湛え、その眼で桔梗様の顔を覗き、猫撫で声で云い出したのである。
「立派なお心掛けでございますよ。そうでなければなりますまい。それでこそ昆虫館館主の令嬢、感心を致してございますよ。……云わぬと決心したからには、そこまで徹底しない事には、本当の女丈夫とは申されますまい。嚇して聞こうと致したは、妾の間違いでございました。もうもうすることではございません。……が、桔梗様、そうは云っても、妾も女方術師の、冷泉華子でございますよ。これと一旦決心したことは、きっとやり通してお目にかけます。たとえば……」と云うと冷泉華子は、いよいよ声を優しくしたが、「たとえばあなたを隅田の屋敷から、ここへお連れして来ましたのも、そうしてあなたが、三浦三崎の、木精(こだま)の森から下られて、江戸へおいでになりました事を、探って知ったのも妾でございます。もっとも直接それをしたは、妾の部下で一ツ橋の家臣の、南部さんというお侍さんと、その一味ではございますが、命じたのは妾でございます。……いやそればかりではございません。まだ色々のことを知っております。昆虫館が閉ざされたこと、郷民がみんな立ち去ったこと、みんな探って知っておりました。知ろうと思えばどんなことでも、きっと妾は知ってみせます。で……」と云うと冷泉華子は、穏かではあるが気味の悪い、丁寧ではあるが威嚇的の、矛盾した微笑を浮かべたが、「で、あなたがどう隠し、どう口をお噤みなさろうと、最後には一匹の蝶のありか[#「ありか」に傍点]を、きっと云わせてお目にかけます。つまりあなたと致しましては、隠すだけが損なのでございます。いつまでも強情にお隠しになると、好んでしたくはございませんが、今度こそ本当に醂麝(りんじゃ)液で、あなたのお美しい顔や手を、焼け爛(ただ)らせてお目にかけます。オヤオヤ」と華子は苦笑いをした。「またも妾の厭な癖の、嚇しの手が出たようでございますね。いえ嚇しません嚇しません、嚇して口を開くような、そんな臆病な桔梗様ではなかったはずでございますから。……嚇すどころではございません、お願いするのでございます。どうぞお明かしくださいませ、どうぞお知らせくださいまし、永生の蝶の一匹のありか[#「ありか」に傍点]は、一体どこなのでございましょう」
 どんなに云われても桔梗様には、返事をすることが出来なかった。永生の蝶の居場所を、真実知っていないからである。
 首をうなだれた[#「うなだれた」に傍点]桔梗様は、ただ繰り返すばかりであった。
「妾嘘は申しません。どこに蝶がおりますやら、存じませんでございます。どうぞ虐めないでくださいまし。どうぞ叔父様のお屋敷へ、お帰しなすってくださいまし」
 両袖を顔へあてたのは、涙を見せまいとしたのだろう。やがて泣き声が洩れて来た。肩が細かく波を打つ、耳髱へかかった後毛(おくれげ)が、次第に顫えを増して来る。








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