国枝史郎「神秘昆虫館」(35) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(35)

 35

 争闘の後の静けさよ! ただ声ばかりが聞こえてくる。
「一尺になった! 二尺になった!」
 それから少し間を置いて、
「三尺になるのも間もあるまい!」
 滝の落ちる音が聞こえてくる。これまでの音とは少し違う。ドンドンドン……ドンドンドン……これがこれまでの音であった。しかるに今はザーッ、ザーッと、あたかも夕立ちの降るような、そんな音に変わっている。
 女方術師蝦蟇夫人の、その本名は冷泉華子、その華子の錬金道場の、その道場を囲繞している、樹木の鬱々と繁った所は、宏大もない庭である。
 先刻まで、一式小一郎が、南部集五郎一味の者と、切り合っていたところの庭である。
 その庭の隅の一所に、一個の建物が立っていた。木口で作った建物ではない。岩で作った建物である。その形は正方形、いや丈(たけ)の方がうん[#「うん」に傍点]と高い。長方形と云うべきであろう。十畳敷きぐらいの大きさである。その一方に扉がある。どう
やら鉄で出来ているらしい。外から閂(かんぬき)が下ろされてある。ずっと高い一所に、四角の窓が開いている。その窓から巨大な棒が、一本ヌッと掛け渡してある。その棒の外れに聳えているのが、雑木に蔽われた崖である。その距離は精々一間であろう。崖からは滝が落ちている。いやその滝は先刻方まで、崖を伝って滝壺へ、素晴らしい勢いで落ちていたのであるが、今では少し違う。と云うのは今では滝の水は、巨大な棒――樋なのであるが、それを伝って岩組の建物――すなわち華子の垢離(こり)部屋なのであるが、その中へ落ち込んでいるのであった。
 崖の一角へ足場を定め、窓から垢離(こり)部屋を覗き込みながら、叫びを上げている武士がある。他ならぬ南部集五郎であった。
「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい。五尺六尺となるだろう。部屋が滝の水で一杯になろう、と窒息だ! すなわち溺死!」さも愉快そうに叫んでいる。
 垢離部屋の中に武士がいる。囚われた一式小一郎である。
 大水が頭上から落ちて来る。部屋の扉は閉ざされている。逃げ出すことは絶対に出来ない。水の疏口(はけぐち)も閉ざされたのだろう。部屋の中の水は増すばかりである。
 窓から外光が射している。青々とした月光である。で岩組の垢離部屋の中が、幽かながらも朦朧と見える。
「鎖鎌で刀を捲き落とされた。そこを大勢に組み付かれた。二三人投げたがおっつかなかった[#「おっつかなかった」に傍点]。手を取られ足を取られ、担ぎ上げられたと思ったら、ドンとこんな部屋へ投げ込まれた。……水が落ちて来る! 水が湛(た)まる! 天井は高い! 窓も高い! 扉が開かない! 逃げることは出来ない! だがこうしてはいられない! まごまごしていると溺死する! どんなことをしても逃げなければならない! どんなことをしても出なければならない!」
 で、一式小一郎は、扉の方へ走って行った。水が股までつい[#「つい」に傍点]ている。足を取られてヨロヨロする。扉を押したが揺るごうともしない。
「どこかにないか! どこかに出口は!」
 で、一方の岩壁へ走った。叩いたが岩壁は動かない。ツルツルしていて足がかりもない。
 もう一方の岩壁へ走って行った。やはり叩いたが動かない。もう一方の岩壁へ走って行った。やっぱり駄目だ。打っても叩いても、岩壁は微動さえしなかった。
 どっちの壁を叩いても、微塵動こうとはしないのである。そうしてどの壁も垂直であり、手もかからなければ足もかからないで、岩壁をよじ上り、窓まで行くことも出来なかった。
 ザ――ッ、ザ――ッと水が落ちる。見る見るその水が量を増す。腰までつい[#「つい」に傍点]た。腹までつい[#「つい」に傍点]た。ととうとう胸までつい[#「つい」に傍点]た。間もなく首までつく[#「つく」に傍点]だろう、すぐに頤までつく[#「つく」に傍点]だろう。そうして口までつく[#「つく」に傍点]だろう。鼻までつい[#「つい」に傍点]たら最後である。
 岩壁へもたれた小一郎は、「無念! 駄目だ! 俺は死ぬ! あッあッあッ、溺死する! ……桔梗様アーッ」と呼ばわった。
「そうだ桔梗様はどうしているのだろう? 恐ろしい恐ろしいその館、ここに囚われている限りは、ロクな目に逢ってはおられまい! 命のほども危ぶまれる! 助けなければならない、助けなければならない! 桔梗様アーッ」と呼ばわった。
 考えがグルグル渦を巻く。その間も滝は落ちて来る。ズンズンズンズン水が増す。
「出なければならない、この部屋から! ……助けなければならない、桔梗様を! ……だが出られない! 助けることも出来ない! ……桔梗様! 桔梗様!」
 ザ――ッ、ザ――ッと落ちる水! 次第にまさる水の量! 一式小一郎はこの部屋で、溺死しなければならないだろう。
 だが本当に桔梗様は、この頃何をしていたろう?








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