国枝史郎「神秘昆虫館」(36) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(36)

 36

 ここは華子の錬金部屋である。床へペッタリくず[#「くず」に傍点]折れて、身悶えしているのは桔梗様である。袖で顔を蔽うている。肩で烈しく呼吸をしている。歔欷(すすりない)ている証拠である。
 その前に墨の柱のように、黒の道服を身に纏い、立っているのは華子であった。黄金の杖を差し出している。杖の先からは醂麝(りんじゃ)液が、水銀色をして落ちている。落ちるに従って石畳の上に、小穴がポッツリポッツリと穿(あ)く。そうして煙りがポ――ッと立つ。
 唐獅子型の火炉の中では、火が赤々と燃えている。火炉には釜がかかっている。巨大な唐風の釜である。釜から立ち上っているものは、乳色をした湯気である。部屋全体が煙っている。紫陽花(あじさい)色に煙っている。天井から下っている瓔珞龕(ようらくがん)、そこから射している燈の光それが煙らしているのである。
 少しも変わらない錬金部屋の光景!
 いやいや一つだけ変わっている。出入口に垂れてあった錦の帳(とばり)が、今は高々と掲げられ、開いた戸口から遠々しく、声が聞こえてくることであった。
「一尺になった! 二尺になった!」それから少し間を置いて、「三尺になるのも間もあるまい!」――南部集五郎の呼び声である。
 と、華子は云い出した。
「あなたの恋人の一式様は、岩組で作った垢離部屋の中に、閉じ込められてしまいました。あなたの身の上を案じられ、助けに来られた一式様が! ……お聞きなさりませ滝の音を! ザ――ッ、ザ――ッ、ザッ、ザ――ッと聞こえてくるではございませんか! 落ちているのでございますよ、その岩組の垢離部屋の中へ! ……一尺になった、二尺になった、三尺になるのも間もあるまい! お解りになりましょうか、この意味が? 水が湛まったということです。……湛まり湛まって滝の水が、垢離部屋一杯になった時、溺死することでございましょう、あなたの恋人の一式小一郎様は! で、悪いことは申しません、永世の蝶の一匹の在家(ありか)を、一口お打ち明けなさいませ、そうしたら滝の水を止めましょう。そうして一式小一郎様と、あなたとをお助けいたしましょう」
 で、じっと[#「じっと」に傍点]桔梗様を見た。
 桔梗様は返辞をしなかった。云いたいにも云うことがないからであった。永生の蝶の一匹の在家(ありか)を事実知っていないからであった。
 恐ろしい拷問と云わなければならない。
 助けにやって来た恋人を、一方において水責めに、断末魔の時期を刻々に告げ、さらに一方では恐ろしい、腐蝕性ある醂麝淋を、突き付けて威嚇するのである。永生の蝶の一匹の在家を、もし桔梗様が知っていたら、一も二もなく明かせたであろう。そうでなくとも桔梗様に、少しでも不純の心があったら、出鱈目の在家を告げることによって、一時の危難から遁れたかも知れない。桔梗様にはそれは出来なかった。と云うよりむしろ桔梗様には、一時遁れの口実等を、考える事さえ出来なかったのである。そんなにも心が純なのであった。
「一式様とご一緒に死ぬ! それこそ妾の本望だ。ちっとも妾は悲しくない。それにしても一式小一郎様は、どうして妾の居場所を、突き止めて助けに来られたのだろう? ……誘拐されたと感付いたので、小指を噛み切り、血をしたたらせ、そのことを懐紙へ認めて、櫛や簪に巻き付けて、幾個(いくつ)か往来へ落としたが、ひょっとかすると[#「ひょっとかすると」に傍点]その一つを、一式様がお拾いになり、それからそれと手蔓を手繰(たぐ)り、ここをお突き止めなされたのかも知れない。もしそうなら妾と一式様は、よくよくご縁があるというものだ。そういうお方と同じ場所で、同じ一味の悪者の手で、同時に殺されてこの世を去る。恋冥加! 怨みはない!」これが桔梗様の心持であった。
 で少しも取り乱さなかった。とは云えやっはり悲しくもあれば、また恐ろしくも思われた。で、泣きながら身喪いをし、顔から袖を放さなかった。
 その間も南部集五郎の声は、戸口を通して聞こえてきた。「三尺になるのも間もあるまい! 四尺になるのも間もあるまい! 五尺六尺となるだろう! 部屋が滝の水で一杯に
なろう。と窒息だ! すなわち溺死!」
 ザ――ッ、ザ――ッと滝の音が、伴奏のように聞こえてくる。
 と、またもや集五郎の声が、「腰まで浸(つ)いた! 腹まで浸いた! おおとうとう胸まで浸いた!」
 ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
 と、また集五郎の声がした。
「喉まで浸いたぞ! 頤まで浸いたぞ!」
 ザ――ッ、ザ――ッと滝の音!
 つと華子は踏み出した。「まだ云わぬか! 汝(おのれ)強情! 云え云え云え、蝶の在家を! まだ助かる、さあ桔梗!」
 ヌ――ッと杖を突き出した。キラキラ光る黄金の杖! 水銀色の醂麝液が、その尖端で顫えている。
 だがとうとう聞こえてきた。「口まで浸いたぞ! 鼻まで浸いたぞ! 水が全身を乗り越したぞ! 姿が見えない! 水ばかりだ! 溺れた溺れた!一式小一郎は!」
「汝も共々!」と冷泉華子は、一気に杖を突き出した。「くたばれくたばれ! 殺してやろう!」
 が、桔梗様はそれより早く、グ――ッと横仆しに転がった。気絶か、それとも本当の死か? 仆れた桔梗様は動かない。
 恋人同志、桔梗様と小一郎は同時にこの世を去ったらしい。
 だからこの時この館を目掛け、芹沢の方から七福神組が、手組輿に弁天松代を載せ、掠めた調子でエッサエッサと、掛け声を掛けながら馳せつけて来たが、手遅れになったと云わなければならない。
 だが乱闘の始まったのは、それから間もなくのことであった。








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