国枝史郎「神秘昆虫館」(38) (しんぴこんちゅうかん)

国枝史郎「神秘昆虫館」(38)

 38

 それとも感付かぬその侍は、植え込みの前を行き過ぎた。
 とたんに飛び出した布袋の市若は、敏捷さながら猟犬のように、背後からパッと飛び付いた。同時に左腕を鈎に曲げ、侍の首へ捲き付けたのは、声を上げさせないためなのだろう。
「うまいぞ市若!」と大黒の次郎は、つづいて颯と飛び出すと、小手を揮って眼潰しだ、侍の眼の辺りをひっ[#「ひっ」に傍点]叩(ぱた)いた。
 で、侍はひとたまりもなく、捕虜にされたかと思ったら、結果はむしろ反対であった。布袋の市若がドッサリと、まず地上に投げ付けられ、つづいて大黒が蹴仆された。非常に武道の達者らしい。だがこの侍は何者であろう?
 他でもない南部集五郎で、一刀流では達人である。七福神組が怪盗でもまた行動が敏捷でも、なんのそれらにムザムザと、捕らえられるようなヤクザではない。ともすると一式小一郎と、互角に勝負をするほどの、腕に覚えのある人物であった。
 垢離部屋の滝の水が一杯に充ち、一式小一郎が完全に、その水に溺れて見えなくなったのを、今や充分確かめて、それを冷泉華子の耳へ、入れてやろうと崖から下り、ここまで小走って来たところであった。
「これ、誰だ!」と集五郎は、一喝声を浴びせかけた。それからグルリと見廻して見た。不思議なことには誰もいない。たしかに二人の人間を、投げ出し蹴仆したはずであるが、どうしたものか姿が見えない。
 これは見えないのが当然であった。七福神の連中と来ては、動作の素早さ身の軽さ、驚くべきものがあるのであった。で、布袋と大黒だが、投げられ蹴仆された一瞬に弾んだ毯のように刎ね上り、刎ね上った時には横へ反(そ)れ、闇を領して繁っている、楓の植え込みの真ん中へ、飛び込んで姿を眩ませたのである。
「おかしいなあ」と集五郎は、刀の柄へ手を掛けながら、油断なく前後を睨め廻したが、自然と気勢が感じられたのだろう。楓の植え込みへ眼をつけた。じっと見込んだが愕然と
した。異風をした六七人の人間が、地上に腹這い鎌首を立て、こちらを狙っている姿が、闇を一層闇にして、黒々と浮かんで見えたからである。
 そこで集五郎は大音を上げた。「やあ方々お出合いなされ! 我らの秘密の道場へ、またも何者か忍び入ってござる! しかも今回は一人ではない、六七人はおりましょう!
いずれも異風の怪しい連中! 討ち取りなされ! 討ち取りなされ!」刀を引き抜くと「出ろ汝(おのれ)ら!」
 ガラガラガラ! と戸を開ける音や、バタバタバタ! とと走り出る音が、四方八方で聞こえたが、人影がムラムラと集まって来た。すなわち幾個(いくつ)かの建物に、閉じ籠っていた武士どもが、南部集五郎の声に応じ、得物々々をひっさげて、楓の植え込みを包囲するように、一度に集まって来たのである。
「やあ方々!」と南部集五郎は云った。「曲者はそこだ、植え込みの中だ! 押し包んで一気に乱刃に、討ち取りなされ、討ち取りなされ!」
「心得てござる!」
 と十五六人は、抜いた白刃を「突き」に構え、植え込みの中へ突き行った。
「おっどうした!」「これは不思議!」「いないではないか!」
「一人もいない!」
 まさしく楓の植え込みの中には、人の子一人いなかった。
 駆け引き自在の七福神組達、形勢非なりと見て取るや例の神速の行動で、七人七方へバラバラと、潜行してしまったに相違ない。
 正しくそれに相違なかった。
 次の瞬間にあちこち[#「あちこち」に傍点]から、喚声と悲鳴とが聞こえてきた。
「ここに曲者! ……一人目付けた!」
 築山の方からの声である。
「何を!」と凄い突っ刎ねる声、「斃(くた)ばりやアがれーッ」ともう一声!
 続いて「ワッ」という恐ろしい悲鳴!
 七福神組の一人が、一ツ橋家の侍を、どうやら一刀に切ったらしい。
 と反対の竹藪の方から、「ここにも一人! 異風の曲者!」
「うるせえヤイ!」と答える声!
 すぐに続いて「ワッ」という悲鳴!
 七福神組の一人に、またもや一ツ橋家の侍が、どうやら討って取られたらしい。
 と、遥かに距離をへだてた、泉水のある方角から、「曲者でござる! 曲者でござる!」
 すぐにチャリ――ンと太刀の音! つづいてドブ――ンと水の音!
「態(ざま)ア見やがれーッ」と言う声がした。
 一ツ橋家の武士が一人、七福神組の一人に、切られて泉水へ蹴込まれたらしい。








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