国枝史郎「天主閣の音」(16) (てんしゅかくのおと)

国枝史郎「天主閣の音」(16)

     一六

「ねえ殿様」とお半の方は、溶けるような媚を作り「いろいろ珍らしい機械だの、眠剤などを戴いた上は、何か此方からも香具師殿へ差し上げなければなりますまい」
「うん、いい所へ気が付いた。お前何か欲しいものは無いか」
「はいはい有難う存じます。さあ只今は是と申して……」
「ふうん無いのか、慾の無い奴だな」
「おお殿様、こうなさりませ」お半の方が口を出した。「物慾の無い香具師殿、物を遣っても喜びますまい。それよりご禁制の天主閣の頂上へ上るのをお許しになり」
「これこれお半、それは不可ない」宗春は鳥渡驚いたらしく「家来共が苦情を云おう」
「ホッホッホッホッ」とお半は笑った。「六十五万石のお殿様が、家来にご遠慮遊ばすので」
「莫迦を云え」と厭な顔をした。「何んの家来に遠慮するものか」
「ではお礼として香具師殿を、天主閣へお上《のぼ》せなさりませ」
「香具師、お前は何う思うな?」
「これは結構でございますなあ。あの高いお天主へ上り、名古屋の城下を眺めましたら、さぞ可い気持でございましょう」香具師の眼はギロリと光った。
「うん望みなら上らせてやろう。よし家来共が何を云おうと、一睨みしたら形が付く」
「はいはい左様でございますとも」お半の方はニンヤリと笑った。「香具師殿。お礼でございます」
「お半の方様ありがたいことで」
 こう香具師は嬉しそうに云ったが、腹の中では不思議であった。
「ははあ余っぽど眠剤が、気に入ったものと思われる。成程なあ、あの老人流石に可い事を教えてくれた。こう覿《てき》面にあの薬が、利目があろうとは思わなかった。兎まれ天主閣へ上れるなら、こんな有難え事はねえ。いよいよ大願成就かな」

 大須観音境内は、江戸で云えば浅草であった。
 その附近に若松屋という、二流所の商人宿があった。
 久しい以前から其宿に、江戸の客が二人泊っていた。帳場の主人や番頭は多年の経験から二人の客を、怪しいと睨んでいた。
「どうも商人とは思われないね」
「と云って職人では勿論無し」
「そうして、二人は、友達だと云うが、そんなようにも見えないね」
「あれは主従に相違ありません」
「主人と思われる一人の方は、お大名様のように何となく威厳があるね」
「いや全く恐ろしいような威厳で」
「二人とも立派なお武士《さむらい》さんらしい」
「ひょっとかすると水戸様の、ご微行かなんかじゃあ有りますまいかな。それ一人は光圀様で、もう一人が朝比奈弥太郎」
「莫迦をお云いな、何を云うのだ。水戸黄門光圀様なら、とうの昔にお逝去れだ」
「あっ、成程、時代が違う」
「それは然うと今日はやって来ないね、いつも遣って来る変な老人は」
「そうです今日は来ないようです」
「あれも気味の悪い老人だね」
「年から云えば八十にもなろうか、それでいて酷くピンシャンしています」
「あの人の方が光圀様のようだ」
 これが帳場での噂であった。
 或日元気の可い三十がらみ[#「がらみ」に傍点]の、商人風の男が、ひょこりと店先へ立った。
「鳥渡お訊ね致します」
「へえへえ何んでございますかね」
「お家に江戸のお客様が、お二人泊って居られましょうね?」
「へえ、お泊りでございます」
「私は江戸の小間物屋で、喜助と申す者でございますが、鳥渡お二人様にお目にかかりたいんだ」
「鳥渡お待ちを」
 と云いすてて、番頭は奥の方へ小走って行った。
 と、すぐに引っ返して来た。
「お目にかかるそうでございます」
「ご免下さい」
 と男は上った。
 後を見送った帳場の主人は、首を捻ったものである。
「どうも此奴も小間物屋じゃあねえ」
 そこへ番頭が帰って来た。
「今のお客様を何う思うね?」
「さあ」番頭も首を捻った。「矢っ張り何うもお武士さんのようで」
「私は何んだか気味が悪くなったよ」
 主人は眼尻へ皺を寄せた。





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