国枝史郎「天主閣の音」(18) (てんしゅかくのおと)

国枝史郎「天主閣の音」(18)

     一八

「旦那、大変でございますよ」
 番頭の顔は蒼褪めていた。
「何んだい番頭さん大仰な」主人の仁右衛門は怪訝そうに訊いた。
「旦那、何んだじゃありませんよ。三人の江戸のお客様、大変な人達でございますよ」
「それじゃあ何かい兇状持かい?」
「飛んでもないことで、大岡様ですよ」此処で番頭は呼吸を継いだ。「大岡越前守様のご一行で」
 そこで番頭は立聞をした、三人の話を物語った。
 主人の仁右衛門は腕を組んだ。
「これはうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置けないね。町役人迄届けて置こう」
「それが宜敷うございます」
 そこで仁右衛門は家を出た。
 仁右衛門の話を耳にすると、町役人は仰天した。
 そこで上役に言上した。上役から奉行へ伝言した。奉行から家老へ伝言した。
 成瀬隼人正、竹腰山城守、石河佐渡守、志水甲斐守、渡辺飛騨守の年寄衆は、額を集めて相談した。
「これは何うも大事件だ。江戸の町奉行が隠密となり、直々他領へ入り込むとは、曾て前例の無いことだ。これが普通の隠密なら、捕えて殺して了えば可いが、大岡越前守とあって見れば、そういう乱暴な手段も執れない。若松屋の番頭の立聞きに由れば、殿に謀叛の疑いがあり、御金蔵に貯えた黄金の額を主として調べに来たのだというから御金蔵の黄金を他所へ移しそれから逆に使者を遣わし、越前守を城中へ召し、夫れとなく御金蔵の内を見せ、安心させるのが可いだろう」
 年寄の意見は斯う決まって主君《との》へ言上することにした。
 この日宗春は奥御殿で、快い眠りに耽っていた。
 その傍にお半がいた。これも矢張り眠っていた。
 薄煙が部屋に立ち迷っていた。
 四辺に散らしてあるものは、眠薬の壺と吹管であった。部屋には最う一人人がいた。それは他ならぬ香具師であった。お伽衆だという所で、自由に奥御殿へ出入ることが出来た。彼一人だけ眼覚めていた。二人の寝姿を真面目に見守り、膝に手を置いて考えていた。
 襖の向うから声がした。
「お半の方様、お半の方様」取締りの老女の声であった。
「お半の方様はお休みで」こう香具師が代って答えた。
「おお、貴郎は香具師殿か。殿様はお居ででございましょうか?」
「へえへえお居ででございます。が、矢っ張りお休みで」
「直ぐにお起し下さいますよう」
「仲々お眼覚めなさいますまい」香具師は鳥渡嘲笑うように云った。
「よい夢の真最中一刻ぐらいは覚めますまい」
「それは何うも困りましたね。成瀬様が何事か急々に、言上致したいとか申しまして、只今おいででございます」
「成瀬様であろうと竹腰様であろうと、この夢ばかりは破れますまい。お待ちなさるようお伝え下され」此処で香具師はヘラヘラ笑った。

「が、それにしてもお前様は、どうしてそんな[#「そんな」に傍点]御寝所などで、何をしておいででございますな」老女の声は咎めるようであった。
「へえへえ私でございますかね、琥珀の夢、珊瑚の夢、極楽の夢、天国の夢、そういう夢の指南番、それを致して居りますので」
「何を莫迦な」と一言残し、老女の足音は向うへ消えた。香具師はペロリと舌を出した。
「これで仲々馬鹿でねえ奴さ」
 二人の夢は覚めなかった。二度ばかり老女が聞きに来た。
「お気の毒さま。まだお寝んね」こう云って香具師は追い返した。
 夕方二人は眼を覚ました。
「ああ綺麗な夢だった」だる[#「だる」に傍点]そうに宗春がこう云った。
「眠剤の功徳でございます」さも得意そうに香具師は云った。
「俺はお前へ礼を云うよ。全く此奴は可い薬だ。だが併し覚めた後は、ひどく万事が物憂くなる」
「可い後は悪いもので」こう香具師は笑い乍ら云った。「両方可いことはございません」
「政治を執るのが厭になった。眠剤ばかり喫んでいたい」
「大変結構でございます。御大名方と申す者は、決して決して御自分で、ご政治など執るものではございません」変に香具師は真面目に云った。「〈居附造りの築城〉もお止めなさるが可うございます」「そうさな」と宗春はだるそうに「〈居附造り〉と眠剤と、どっちを取るかと訊かれたら、俺は眠剤を取るだろう」





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