国枝史郎「天主閣の音」(19) (てんしゅかくのおと)

国枝史郎「天主閣の音」(19)

     一九

 そこへ老女が遣って来た。
「ナニ、成瀬が会いたいというのか。また、諫言かな、うるさい[#「うるさい」に傍点]事だ。会えないと云って断わって了え」
 こう云ったものの立ち上った。
「あの渋っ面の成瀬奴に、ひとつ眠剤を喫ませてやろう」
 手頼りない足どりで部屋を出た。
 お半の方は考えていた。意外だというような顔付であった。囁くように香具師へ訊いた。
「これは毒薬では無いのかい?」
「滅相も無い」と香具師は云った。「唐土渡来の眠剤で」
「でも妾の頼んだのは、後に痕跡の残らない、毒薬の筈じゃあ無かったかい」
「何を仰有るやら、お半の方様」香具師は寧ろ唖然とした。「頼まれた覚えはございませんねえ」
「お止しよお止しよ、空っとぼける[#「とぼける」に傍点]のはね」お半の方は眉を上げた。「部屋にはお前と妾とだけ、聞いている人は無いじゃあないか。……あの時の約束は何うしたんだよ」
「どうも私にゃ、解りませんねえ」いよいよ香具師は驚いたらしい。「一体全体何時何処で、どんな約束を致しましたので?」
「ふん」と如何にも憎さげに、お半の方は鼻を鳴らした。「大悪党にも似合わない、飛んだお前は小心者だね。……だが然う白を切り出したら、突っ込んで行っても無駄だろう。では、あの話はあれだけにしよう。……それでは愈々この薬は、毒薬では無くて眠剤だね」
「毒薬で無い証拠には、殿様も貴女も其通り、娑婆にいるじゃあございませんか」
「成程ねえ、それは然うさ」お半の方はうっとり[#「うっとり」に傍点]とした「妾は綺麗な夢を見た。でも妾は思ったのさあれは決して夢では無くて、極楽浄土に相違無いとね」
「鳥渡お訊ね致しますがね」香具師は探ぐるように云い出した「ほんとに貴女様は眠剤を、毒だと思っていらしったので」
「あたりまえだよ。何を云うのさ」
「では何うして貴女様自身、毒をお飲みでございましたな?」
「ああ夫れはね」とお半の方は、物でも咽喉へつかえ[#「つかえ」に傍点]たように「一緒に死のうと思ったのさ」
「へえ、一緒に? 何人様と?」
「馬鹿だねえ、お前さんは!」叱※[#「口へん+它」、第3水準1-14-88、読みは「タ」、94上-20]するように嘲笑った。「誰と一緒に毒を喫んだか、お前さんには解らないのかい?」
「解って居りますよ。御殿様と……」
「それじゃあ夫れで可いじゃあないか」
「ふうん」と香具師は腕を組んだ。
 お半の方は咽ぶように云った。
「恨みは恨み、恋は恋、妾に執ってはお殿様は、離れられないお方なのさ」
 お半の方は項垂れた。
「……いよいよ毒薬で無いとすれば、別の手段を考えなければならない」これは心中で呟いたのであった。
 そこへ宗春が帰って来た。何となく勝れない顔色であった。ムズと坐って考え込んだ。
「殿様、何か心配のことでも?」こう軟かく香具師は訊いた。
「うん」宗春は顎を杓った。「江戸の吉宗奴が俺を疑い、町奉行の大岡越前奴を、隠密として入り込ませたそうだ」
「あっ!」と香具師はのけぞった[#「のけぞった」に傍点]。「ひええ。大岡越前守様が!?[#「!?」は1マスに横並び]」彼の顔色は一変した。「で、殿様のご対策は?」
「逆手を使って越前奴を、今夜城中へ招くことにした」
 宗春は不意に立ち上った「香具師来い! お半も参れ! 約束の天主閣を見せてやろう。……気が結ばれてムシャムシャする。天主へ上って気を晴らそう。高きに上って低きを見る。可い気持だ、さあさあ来い!」
 荒々しく宗春は部屋を出た。
 二人は後へ従った。
 御殿から出ると後苑[#「後苑」は底本では「後宛」と誤記]であった。西北に小天守が立っていた。小天守の中へ這入って行った。東に進むと廻廊があった。それを真北へ進んで行った。その行き止まりに天主閣があった。入口に固めの番士がいた。宗春を見ると平伏した。尻眼にかけて三人は進んだ。
 這入った所が初重であった。南北桁行十七間、東西梁行十五間、床から天井まで一丈二尺、腰に三角の隠し狭間、無数の長持が置いてあった。網龕燈が灯っていた。仄々と四辺が煙って見えた。
 三人は階段を上って行った。
 やがて三人は二重へ這入った。桁梁は初重と同じであった。天井まで一丈三尺。
 網龕燈が灯っていた。
 やがて三人は三重へ上った。南北桁行十三間、東西梁行十一間、高さ二丈四尺あった。
 四重へ上り五重へ上った。
 五重が天主閣の頂上であった。





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