国枝史郎「天主閣の音」(20) (てんしゅかくのおと)

国枝史郎「天主閣の音」(20)

     二〇

 桁行七間梁六間、天井までは一丈三尺、東西南北四方の壁に、二十四の狭間が穿たれてあった。
 夕陽が狭間から射し込んでいた。
 南面中央の狭間から、宗春は城下を見下ろした。お濠の水は燃えていた。七軒町、長者町、商家がベッタリ並んでいた。屋根の甍《いらか》が輝いていた。若宮あたりの寺々も、夕陽に燃えて明るかった。歩いている人が蟻のように見えた。
 六十五万石の城下であった。広く豊かに拡がっていた。
 宗春は何時迄も眺めていた。
「江戸に比べると小さなものだ」突然呻くように宗春は云った。「あわよくば将軍にも成れた俺だ。俺に執っては狭すぎる」突然宗春は哄笑した。「ワッハハハハ、六十五万石が何んだ、三家の筆頭が何うしたのだ! 貰い手があったら呉れてやろう。ふん何んの惜しいものか! それを何んぞや吉宗奴隠密を入れて窺うとは! 隠居させるならさせるがいい。秩禄没収それも可かろう。そうしたら俺は坊主になる。が決して経は読まぬ。眠剤ばかり喫んでやる」
 この時香具師はソロソロと北面の狭間へ寄って行った。音を盗んだ擦足であった。閉ざされた狭間戸へ手を掛けた。一寸二寸と引き開けた。
 お半の方は佇んでいた。右手を懐中へ差し入れた。何かしっかり[#「しっかり」に傍点]握ったらしい。眼は宗春を見詰めていた。頸の一所を見詰めていた。足音を盗みジリジリと、宗春の背後へ近寄った。と懐中から柄頭が覗いた。それは懐剣の柄頭であった。
 香具師は狭間戸を二尺ほど開けた。
 と体を飜えしポンと閣外《そと》へ飛び出した。閣外から狭間戸が閉ざされた。
 宗春もお半も気が付かなかった。
 宗春は城下を見下ろしていた。
 お半の方は忍び寄った。スルリと懐剣を引き抜いた。それをソロソロと振り冠った。ピッタリと宗春へ寄り添った。
「お半」
 と其時宗春が云った。悩ましいような声であった。
「俺の身に、いかなる変事があろうとも、お前だけは俺を見棄てまいな」
 お半の方は一歩退った。ダラリと右の手を下へ垂れた。
 尚城下を見下ろし乍ら、宗春は悩ましく云い続けた。
「お前と、眠剤とこれさえ有ったら、俺は他には何んにも不用《いら》ない」
 お半の方は懐剣を落とした。床に中たって音を立てた。
 はじめて宗春は振返った。
 お半の方は首垂れた。その足下に懐剣があった。お半の方はくず[#「くず」に傍点]折れた。宗春には訳が解らなかった。お半の方と懐剣とを、茫然として見比べた。
 長い両袖を床へ重ね、お半の方は額を宛てた。肩が細かく刻まれるのは、忍び泣いている証拠であった。
 お半の方は顔を上げた。懐剣を取って差し出した。
「お手討ちになされて下さいまし」
 お半の方は咽び乍ら云った。
「何故な?」
 と宗春は不思議そうに訊いた。
「その懐剣は何うしたのだ?」
「はい、是でお殿様を……」
「ははあ俺を刺そうとしたのか?」
「……その代り妾もお後を追い……」
「うむ、心中というやつだな」
「……お弑《しい》し致さねばなりません。……お弑しすることは出来ません。……恨みあるお方! 恋しいお方! ……二道煩悩……迷った妾! ……お手討ちなされて下さいまし!」
「一体お前は何者だ?」
「妾の父はお殿様に……」
「可い可い」
 と宗春は手を振った。
「云うな云うな、俺も聞かない。……
 ……父の仇、不倶戴天、こういう義理は小五月蠅《うるさ》い。……訊きたいことが一つある。お前は将来も俺を狙うか?」
 お半の方は黙っていた。
「殺せるものなら殺すがいい。殺されてやっても惜しくはない。だが、よもや殺せはしまい。……俺は野心を捨てるつもりだ。お前も義理を捨てて了え! 二つを捨てたら世のなかは住みよい。住みよい浮世で、活きようではないか。……俺には、お前が手放せないよ」
 お半の方はつっ伏した。両手で宗春の足を抱いた。一生放さないというように。宗春は優しく見下ろした。その眼を上げて四辺を見た。
「や、香具師の姿が見えぬ。はてさて、性急に何処へ行ったものか?」
 寺院で鳴らす梵鐘《かね》の音が、幽ながらも聞えて来た。夕陽が褪めて暗くなった。





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