国枝史郎「銅銭会事変」(01) (どうせんかいじへん)

国枝史郎「銅銭会事変」(01)

    女から切り出された別れ話

 天明六年のことであった。老中筆頭は田沼主殿頭《たぬまとのものかみ》、横暴をきわめたものであった。時世は全く廃頽期《はいたいき》に属し、下剋上の悪風潮が、あらゆる階級を毒していた。賄賂請託《わいろせいたく》が横行し、物価が非常に高かった。武士も町人も奢侈《おごり》に耽った。初鰹《はつがつお》一尾に一両を投じた。上野山下、浅草境内、両国広小路、芝の久保町、こういう盛り場が繁昌した。吉原、品川、千住《こつ》、新宿、こういう悪所が繋昌した。で悪人が跋扈《ばっこ》した。
 その悪人の物語。――
 梅が散り桜が咲いた。江戸は紅霞《こうか》に埋ずもれてしまった。鐘は上野か浅草か。紅霞の中からボーンと響く。こんな形容は既に古い。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」耽溺詩人其角《きかく》の句、まだこの方が精彩がある。とまれ江戸は湧き立っていた。人の葬式にさえ立ち騒ぐ、お祭りずきの江戸っ子であった。ましてや花が咲いたのであった。押すな押すなの人出であった。さあ江戸っ子よ飜筋斗《とんぼ》を切れ! おっとおっと花道じゃあねえ。往来でだ、真ん中でだ。ワーッ、ワーッという景気であった。

 その日情婦《おんな》から呼び出しが掛かった。若侍は出かけて行った。
 いつも決まって媾曳《あいびき》をする、両国広小路を横へ逸《そ》れた、半太夫茶屋へ足を向けた。
 女は先刻から待っていた。
 やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。
 そうだいつも[#「いつも」に傍点]ならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。
 この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。ろくろく[#「ろくろく」に傍点]物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」若侍は気に掛かった。
 と、女が切り出した。別れてくれというのであった。
 これには若侍も面食らってしまった。で、しばらく黙っていた。
 不快な沈黙が拡がった。
「ふふん、そうか、別れようというのか」こう若侍は洞声《うつろごえ》で云った。
「余儀無い訳がございまして……」
 女の声も洞《うつろ》であった。
 また沈黙が拡がった。
「別れるというなら別れもしよう。だが理由《わけ》が解らないではな」
「どうぞ訊かないでくださいまし」女は膝を手で撫でた。
「どうもおれにはわからない。藪から棒の話だからな」若侍は嘲けるようにいった。相手を嘲けるというよりも、自分を嘲けるような声であった。「では今日が逢い終《じま》いか。ひどくさばさば[#「さばさば」に傍点]した別れだな。いやその方がいいかもしれない。紋切り型で行く時は、泣いたり笑ったり手を取ったり、そうでなかったらお互いに、愛想吐《づ》かしをいい合ったり、色々の道具立てが入るのだが、手数がかかり時間がかかりその上後に未練が残り、恨み合ったり憎んだり、詰まらないことをしなければならない。そういうことはおれは嫌いだ。いっそ別れるならこの方がいい。女の方から切り出され、あっさり[#「あっさり」に傍点]それを承知する。アッハッハッ新しいではないか」
 決して厭味でいうのではなかった。それは顔色や眼色で知れた。本当にサラリとした心持ちから、そう若侍は言っているのであった。
「そうと話が決まったら、今日だけは気持ちよく飲ましてくれ」
 若侍は盃を出した。女は俯向いて泣いていた。
「おや、どうしたのだ、泣いているではないか。おれは虐《いじ》めた覚えはない。虐められたのはおれの方だ。虐めたお前が泣くなんて、どう考えても不合理だなあ」まさに唖然とした格好であった。「ははあ解った、こうなのだろう。あんまりおれが手っ取り早く、別れ話を諾《き》いたので、それでお前には飽気《あっけ》なく、やはり月並の別れのように、互いに泣き合おうというのだろう。だがそいつは少し古い。それもお前が娘なら、うん、初心《うぶ》の娘なら、そういう別れ方もいいだろう。ところがお前は娘とはいえ、浅草で名高い銀杏《いちょう》茶屋のお色、一枚絵にさえ描かれた女だ。男あしらい[#「あしらい」に傍点]には慣れているはずだ。お止しよお止しよそんな古手はな。……おや、やっぱり泣いているね。いよいよ俺には解らなくなった。ははあなるほど、こうなのだろう。あんまり気前よく承知したので、気味が悪いとでもいうのだろう。そこでいわゆる化粧泣き、そいつで機嫌を取り結び、後に祟りのないように、首尾よく別れようというのだろう。もしそうならおれは怒る!」
 若侍は睨むようにした。




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