国枝史郎「銅銭会事変」(04) (どうせんかいじへん)

国枝史郎「銅銭会事変」(04)

    北町奉行曲淵甲斐守

 彼の屋敷は本所にあった。
「お帰り遊ばせ」と若党がいった。
「ああ」と受けて部屋へはいった。小間使いが茶を淹《い》れて持って来た。
「お父様は?」と弓之助は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「お兄様は?」と彼は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「みんな勉強しているのだな。何んのために勉強するのだろう? 論語を読んでどうなるんだろう? どこかの世界で役立つかしら? どうもおれには疑問だよ。そんな事より行儀でも習って、頭の下げっ振りでも覚えるんだね。そうでなかったら幇間《ほうかん》でも呼んで、追従術《ついしょうじゅつ》を習うんだね。こいつの方がすぐ役立たあ。お菊お前はどう思うな?」
「若旦那様何をおっしゃるやら、ホッホッホッホッ、そんな事」小間使いのお菊は無意味に笑った。
「ホッホッホッホッそんな事か? なるほど、こいつも処世術だ。語尾を暈《ぼか》して胡麻化《ごまか》してしまう。偉いぞお菊、その呼吸だ。御台所《みだいどころ》に成れるかもしれねえ。俺はお前の弟子になろう、ひとつ俺を仕込んでくれ」
「厭でございますよ、若旦那様」小間使いのお菊は逃げてしまった。
 弓之助は寝ることにした。
「どぎった[#「どぎった」に傍点]事はないものかしら? ひっくり[#「ひっくり」に傍点]返るような大事件がよ。俺はそいつへ食い下がってゆきたい。何んだか知らねえがおれの心には変てこな塊《かたまり》が出来ている。ともかくもこいつを吐き出したいものだ。つまり溜飲を下げるのさ」

 北町奉行曲淵甲斐守《まがりぶちかいのかみ》、列代町奉行のその中《うち》では、一流の中《うち》へ数えられる人物、弓之助にとっては叔父であった。
 その翌日のことであった、弓之助は叔父を訪問した。屋敷内が騒がしかった。与力が右往左往した。同心どもが出入りした。重大な事件でも起こったらしい。弓之助は叔母の部屋へ行った。
「叔母様、何か取り込みで?」
「おやこれは弓之助さんかい。何んだか妾《わたし》には解らないが、大変なことが起こったようだよ」
 弓之助には母がなかった。五年ほど前に逝《なくな》ってしまった。で、弓之助はこの叔母を、母のように、懐しんでいた。
「お茶でも淹《い》れよう、遊んでおいで。叔父さんも帰って来ようからね」
「ええ有難うございます」
 お茶を飲んで世間話をした。叔父は帰って来なかった。御殿へ詰め切りだということであった。夜になってようやく帰って来た。その顔色は蒼褪めていた。弓之助は叔父の部屋へ行った。
「毎日ご苦労に存じます」
「おお弓之助か、近ごろどうだ」こうはいったがいつものように、優しく扱かってはくれなかった。いわゆる心ここにあらず、何か全く別のことを、考えているような様子であった。
「これは大事件に相違ない」弓之助は直覚した。「何か大事件でも起こりましたので」顔色を見い見い訊いて見た。
「うん」と甲斐守は物憂そうにいった。「前古未曽有の大事件だ」
「いったいどんなことでございますな?」
「絶対秘密だ。いうことは出来ない」甲斐守は苦り切った。





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