国枝史郎「銅銭会事変」(08) (どうせんかいじへん)

国枝史郎「銅銭会事変」(08)

    弓之助感慨に耽る

 甲斐守はこう語った。
 弓之助は奇異の思いがした。
「これは陰謀でございますな。狐狸の所業《しわざ》ではありませんな。怪しいのはその女で、何者かの傀儡《かいらい》ではございますまいか?」
「うん俺もそう思う。振り袖姿のその女は、銅銭会の会員だろう」
「申すまでもありません。しかし私は銅銭会より、銅銭会をあやつっ[#「あやつっ」に傍点]ているある大きな人物が……」
「これ」と甲斐守は手で抑えた。「お前、田沼殿を疑がっているね」
「勢いそうなるではございませんか」
「が、ここに不思議なことには、今度の事件では田沼殿は、心の底から周章《あわ》てていられる」
「さては芝居がお上手と見える」
「いやおれの奉行眼から見ても、殿の周章《あわ》て方は本物だ。そこがおれには腑に落ちないのだ。……さて、よい物が手に入った。銅銭会縁起録、早速これから御殿へまいり、老中方にお眼に掛けよう」
 叔父の家を出た弓之助は、寂然《しん》と更けた深夜の江戸を屋敷の方へ帰って行った。考えざるを得なかった。
「田沼の所業に相違ない。将軍家に疎《うと》んぜられた。そこで将軍家をおび[#「おび」に傍点]き出し、幽囚したか殺したか、どうかしたに相違ない。悪い奴だ、不忠者め! その上俺の情婦《おんな》を取り、うまいことをしやがった。
 公《おおやけ》の讐《あだ》、私の敵《あだ》、どうかしてとっちめ[#「とっちめ」に傍点]てやりたいものだ。だが、どうにも証拠がない。是非とも証拠を握らなければならない。銅銭会とは何物だろう? 支那の結社だということだが、どういう性質の結社だろう? だがそいつは縁起録を見たら、容易に知ることが出来るかもしれない。明日もう一度叔父貴を訪ね、縁起録の内容を知らせて貰おう。とまれ田沼めと銅銭会とは、関係があるに相違ない。あるともあるとも大ありだ。銅銭会員を利用して、将軍家誘殺を試みたのだ。無理に将軍家を花見に誘い、毒塗り小柄で討ち取ろうとした。ところがそいつが失敗《しくじ》ったので、会員中の美人を利用し、大奥の庭へ入りこませ好色の将軍家を誘い出したのだ。容易なことでは大奥などへは、地下《じげ》の女ははいれないが、そこは田沼がつい[#「つい」に傍点]ている。忍び込ませたに相違ない。だがしかし不思議だなあ。突然消えたというのだから」
 彼はブラブラ歩いて行った。
「田沼にいかに権勢があっても、深夜城門を開くことは、どんなことがあっても出来るものではない。だが城門を開かなかったら、城から外へ出ることは出来ない。それだのに突然消えたという。どうもこいつがわからないなあ」
 弓之助には不思議であった。
「もしかすると将軍家には、千代田城内のどの部屋かに、隠されているのではあるまいかな? お城には部屋が沢山ある。秘密の部屋だってあるだろう。どこかに隠されてはいないかな?」
 神田を過ぎて下谷へ出た。朧月《おぼろづき》が空にかかっていた。四辺《あたり》が白絹でも張ったように、微妙な色に暈《ぼ》かされていた。
「山村彦太郎が将軍家へ、風土記を講読したというが、結講な試みをしたものだ。そのため将軍家の眩まされた眼が、少しでも明いたということは、非常な成功といわなければならない。もっとも今度の大事件の、そもそもの発端というものは、その三河風土記の講読にあることは争われないが、決してそれを責めることは出来ない、聞けば山村彦太郎は、賢人松平越中守様に、私淑しているということだが、ひょっと[#「ひょっと」に傍点]かすると越中守様の、何んとはなしの指金《さしがね》によりて、そんなことをしたのではあるまいかな」





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