国枝史郎「銅銭会事変」(15) (どうせんかいじへん)

国枝史郎「銅銭会事変」(15)

    逢ってくれない弓之助

 走り使いの喜介の家は、二丁目の露路の奥にあった。お色は煤けた格子戸を開けた。
「ちょいと喜介どん、頼まれて頂戴」
 菊石面《あばたづら》の四十男、喜介がヒョイと顔を出した。「へいへいこれはお色さん」
「これをね」とお色は恋文《ふみ》を出した。「いつもの方の所へね。……これが駕籠賃、これが使い賃、これが向こうのお屋敷の、若党さんへの心付け」
「これはこれはいつもながら。……お気の付くことでございます。……そこで益※[#二の字点、1-2-22]ご繁昌」
「冗《むだ》をいわずと早くおいでな」
 喜介は門を飛び出した。お色は両国を渡って行った。「春の海終日《ひねもす》のたりのたり哉《かな》」……「海」を「河」に置き代えよう。「春の河終日のたりのたり哉」まさに隅田がそうであった。おりから水は上げ潮で河幅一杯に満々と、妊婦の腹のように膨れていた。荷足、帆船、櫂小船《かいこぶね》、水の面《おもて》にちらば[#「ちらば」に傍点]っていた。両岸の家並が水に映り、そこだけ影がついていた。
「いい景色、嬉しいわね」お色は恍惚《うっとり》と河を見た。「まるでお湯のように見えるじゃあないの」――嬉しい時には何も彼も、水さえ湯のように見えるものであった。「おや都鳥が浮いているよ。可愛いわねえ、有難うよ」またお色は礼をいった。嬉しい時には有難く、有難い時には礼をいう。これは大変自然であった。そこでお色は橋を越した。まだ広小路は午前《おひるまえ》のことであんまり人が出ていなかった。それがまたお色には嬉しかった。芝居、見世物の小屋掛けからは、稽古囃しが聞こえて来た。
 横へ外《そ》れると半太夫茶屋で、ヒラリと渋染めの暖簾《のれん》を潜った。
「おやお色さん、早々と」女将《おかみ》が驚いて顔を長くした。眉を落とした中年増《ちゅうどしま》唇から真っ白い歯を見せた。
「さあお通り。……後からだろうね?」
 ヒョイと母指《おやゆび》を出して見せた。
「私今日は嬉しいのよ」お色はトンと店へ上がった。
「そうだろうね。嬉しそうだよ」
「うん[#「うん」に傍点]とご馳走を食べるよ」
「家《うち》の肴で間に合うかしら」
「そうして今日は三味線をひくわ」
「一の糸でも切るがいいよ。身受けされるっていうじゃあないか」
「その身受けが助かったのよ」
 いつもの部屋へ通って行った。ちんまり[#「ちんまり」に傍点]と坐って考え込んだ。
「私あの人を嘗《な》め殺してやるわ」
 恐ろしいことを考え出した。
「逢い戻り! いいわねえ」――いいことばかりが考えられた。「初めてあの[#「あの」に傍点]人と逢うようだわ」自分で自分の胸を抱いた。ちょうどあの[#「あの」に傍点]人に抱かれたように。「だが何んだか心配だわ」今度は少し心配になった。「あの人何んておっしゃるだろう」これはちょっと問題であった。「のっけに私はこういうわ。もういいのよ。済んだのよ。お妾《めかけ》に行かなくってもいいのだわ」するとあの[#「あの」に傍点]人おっしゃるかも知れない。「お色、大変気の毒だが、おれには他に情婦《おんな》が出来たよ」……厭だわねえ、困っちまうわ。彼女は本当に困ったように部屋の中をウロウロ見た。「おやこの部屋は四畳半だわ」毎々通る部屋だのに、彼女は初めて気が附いたらしい。「ああでも[#「ああでも」に傍点]ないと四畳半! いいわねえ。嬉しいわ」嬉しい方へ考えることにした。
「でも随分待たせるわねえ」
 まだ十分しか待たないのに。
 床に海棠《かいどう》がいけてあった。春山の半折《はんせつ》が懸かっていた。残鶯《ざんおう》の啼音《なきね》が聞こえて来た。次の部屋で足音がした。
「いらっしゃったか、やっとのこと」彼女は急いで居住居を直した。だが足音は引っ返した。
「莫迦にしているよ。人違いだわ」彼女はだんだん不機嫌になった。
 長いこと待たなければならなかった。女中が茶を淹《い》れて持って来た。
 でもとうとうやって来た。弓之助でなくて喜介であった。
「どうもお色さんいけません。昨日お出かけになったまま、今日まだお帰りにならないそうで」
 喜介の報告《しらせ》はこうであった。お色は一時に気抜けした。じっ[#「じっ」に傍点]と首をうな[#「うな」に傍点]垂れた。





[←先頭へ]

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送