国枝史郎「銅銭会事変」(20) (どうせんかいじへん)

国枝史郎「銅銭会事変」(20)

    銅銭会縁起録内容

「随分考えたが解らなかった」弓之助はまたも苦笑をし、「そこにおいでの女勘助殿に、痛しめられている間中、その事ばかりを考えていたが、無学のおれには解らなかったよ」女勘助をジロリと見た。
 女勘助は横を向き、プッと口をとがらせ[#「とがらせ」に傍点]た。
「それで初めてあなた様が、銅銭会員でないことが、ハッキリ証拠立てられました」徳次郎は一つ頷いたが、
「あれは隠語でございます。銅銭会の隠語なので。「順天行道」と申しますそうで。天に順《したが》って道を行なう。こういう意味だそうでございます。つまり彼らの標語なので。「関開路現《かんをひらきみちをあらわす》」こんな標語もございます。そうしてこれを隠語で記せば「並井足玉《へいせいそくぎょく》」となりますそうで」
「ははあなるほど、そうであったか。扁を取ったり旁《つくり》を取ったり、色々にして造った字だな。いかさまこれでは解らないはずだ」
「さてそこで白旗様、どうして昨夜はこの屋敷へ、忍び込まれたのでございますかな?」
 するとクルリと弓之助は、女勘助の方へ体を向けた。
「おい勘助、偉いことをやったな。森の中でよ、社の森で」
「えっ」と勘助は胸を反《そ》らせた。「へえ、お前さんご存知で?」
「あんまり見事な業《わざ》だったので、後からこっそり尾行《つけ》て来た奴さ」
「あっ、さようでございましたか」女勘助は手を拍った。「そこでこの屋敷へ忍び込んだので?」
「そうさ天明の六人男、そいつがみんな[#「みんな」に傍点]揃ったとあっては、ちょっと様子も見たいからな」「ああこれで胸に落ちた」こう紫紐丹左衛門がいった。

 北町奉行所の役宅であった。
 その一室に坐っているのは、奉行曲淵甲斐守であった。銅銭会縁起録が開かれたまま、膝の上に乗っていた。
「往昔《おうせき》福建省福州府、浦田《ほだ》県九連山山中に、少林寺と称する大寺あり。堂塔伽藍《がらん》樹間に聳え、人をして崇敬せしむるものあり。達尊爺々《たつそんやや》の創建せるも技一千数百年の星霜を経。僧侶数百の武に長じ、軍略剣法方術に達す。
 康※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1-87-58]《こうき》帝の治世に西蔵《チベット》叛す。官軍ことごとく撃退さる。由《よ》って皇帝諸国に令し、賊滅するものを求めしむ。少林寺の豪僧百二十八人、招に応じて難に赴《おもむ》く。国境に至りて大いに戦い、敵国をして降を乞わしむ。皇帝喜び賞を与え僧を少林寺に帰さんとす。隆文耀《りゅうもんよう》、張近秋《ちょうきんしゅう》、二人の大官皇帝に讒《ざん》し、少林寺の僧を殺さしむ。
 兵を発して少林寺を焼く、蔡徳忠《さいとくちゅう》、方大洪《ほうたいこう》、馬超興《ばちょうこう》、胡徳帝《ことくてい》、李式開《りしきかい》の五人の僧、兵燹《へいせん》をのがれて諸国を流浪し同志を語らい復讐に努む。すなわち清朝を仆さんとするなり。この結社を三合会また一名銅銭会と称す」
 これがきわめて簡単な、銅銭会の縁起であって、今日に至るまでの紆余曲折が詳しく書物《ほん》には記されてあった。
「公所(大結社)」のことや「会員」のことや「入会式」のことや「誓詞」のことや「諸律法」のことや「十禁」の事や「十刑」の事や「会員証」のことや「造字《つくりじ》」のことや「隠語」のことや「符牒」のことや「事業」の事や「海外における活動」のことについても、かなり詳しく記されてあった。
 しかし、将軍家紛失に関しての、暗示らしいものは記されてなかった。
 とまれ非常な大結社で、支那の政治にも戦争にも、また外交の方面にも、偉大な潜勢力を持っていることが、記録によって窺《うかが》われた。のみならず印度《インド》や南洋にある、百万近くの支那人のうち、過半以上は会員として、働いていることも記されてあった。
 それと同時に会員のうちには、不良分子も潜在していて、悪いことをしているということも、支那人以外にも会員があって、気脈を通じているということも、相当詳しく記されてあった。




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