国枝史郎「血ぬられた懐刀」(14) (ちぬられたかいとう)

国枝史郎「血ぬられた懐刀」(14)

愛妾の死

 淫蕩とそうして兇暴の光を、その眼の中へ漂わせながら、こう秀次に呼びかけられて、千浪はいよいよ顫え出した。
「はい」と云ったものの近寄ろうとはしない。あべこべに葛葉の背後《うしろ》へ隠れて、体を縮めるばかりであった。
「何も恐れることはない。取って食おうとは云っていない。可愛がってやろうと云っているのだ。参れ! 厭かな? 厭なことはあるまい」
 秀次はヒョロヒョロと立ち上ったが、千浪の方へ歩き出した。
 と、そういう様子を見て、血相を変えた女がある。他ならぬ愛妾葛葉の方で、かばう[#「かばう」に傍点]ように千浪を蔽うたが、
「許しておやり遊ばしませ。まだこの子はほんの[#「ほんの」に傍点]処女《おぼこ》で、可哀そうな子にござります」
 しかし葛葉の顔にあるものは、決して同情や愛憐ではなくて、むしろ自分の寵愛を、侍女《こしもと》の千浪に横取られることを、恐れて案じているところの、妾《めかけ》らしい嫉妬の情であった。
「ナニ処女、ははあそうか」
 秀次はカラカラと笑ったが、
「一層よいの、処女に限る。……其方《そち》は幾年《いくつ》だ? 二十九だったかな。年から云っても盛りは過ぎた。もう俺には興味はない。……代りに千浪をよこすがよい」
 秀次はなおもヒョロヒョロと進む。
 あれ! というように声を上げて、千浪が立って逃げ出したところを、飛びかかって秀次は小脇に抱いた。
「もがけもがけ、あばれろあばれろ、そのつどお前の軟かい肌が、俺の体へぶつかるばかりだ! 小鳥よ、捕らえた! 可愛い色鳥!」
 ズルズルと引き立てて行こうとした。
 その秀次の両の足を、しっかりと抱いた者があった。やはり葛葉の方である。
 冷やかに秀次は睨んだが、
「嫉妬か!」
「上様!」
「邪魔をするか!」
「はなしておやり遊ばしませ」
「其方《そち》こそ放せ! 手を放せ!」
「上様、お慈悲にござります」
「ふん」といかにも憎々しく、秀次は鼻を鳴らしたが
「先刻《さっき》自害をした女のように其方も自害をしたいそうな」
「いっそお手にかけて下さりませ」
「望みか!」と云うと秀次は、ドンと片足を持ち上げたが、ウンとばかりに蹴仆した。
 と、悶絶をする声がした、胸を蹴られた葛葉の方は裾を乱して伏し転んだ。
 一瞬間のざわめきの起こったのは、座に侍《はべ》っていた妻妾や近習が、一時に動揺したからであった。その動揺が静まると、反動的の静けさが、大広間一杯に拡がった。
「今夜はこれで二人死んだ。おそらくまだまだ殺されるだろう。殺せ殺せ、目茶苦茶に殺せ! 聚楽の栄華も先が知れている」
 こう呟いた者があったが、刺繍《ぬいとり》の肩衣に前髪立の、眼のさめるような美少年であった。美童は不破伴作《ふわばんさく》であった。
 狂人じみた目付きをして、秀次は大広間を見廻したが、
「目障りになる! 片付けろ! 死骸は厭だ! 井戸へでも沈めろ!」
 それから千浪を引きずったが、
「今夜の伽《とぎ》だ! 嬉しそうに笑え!」
 で、襖を開けようとした。
 と、その襖が向こうから開いて、
「孫七郎様」と云う声が聞こえてきた。優しくて穏かではあったけれど、威厳のある老女の声であった。
 つと立ちいでた人物がある。
 円頂黒衣鼠色の衣裳、手に珠数をつまぐっている。眉長く鼻秀で、額は広く頤は厳しい。澄んではいるが鋭い眼、頬に無数の皺はあるが、かえって顔を高貴にしている。
 これこそ女傑幸蔵主《こうぞうす》であった。
「相変わらずのお悪戯《いた》でござりますか」
 あたかも子供でもあしらうように、こう秀次に云いかけたが、咎めるような調子はなくて、なだめるような調子があった。そうしてそれが大広間の殺気と、秀次の兇暴の心持とを、平和な甘いものにした。
「幸蔵主の姥か」と鼻白んだように、秀次は千浪の手を放したが、
「俺《わし》はな心が寂しいのだよ」
 云い云い元の座へ押し坐った。
 と、幸蔵主も膝を揃えて、秀次の前へ坐ったが、手を上げると大広間を撫でるようにした。立ち去れという所作なのである。
 これで助かったというように、座に並んでいた妻妾達が近習の武士達と立ち上って、一整に姿をかくした後には秀次と幸蔵主ばかりが残された。




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