国枝史郎「銅銭会事変」(24) (どうせんかいじへん)

国枝史郎「銅銭会事変」(24)

    嬉しい再会

「三河風土記ばかりではなかった。いろいろの書物《ほん》を読んでくれたよ。間々《あいだあいだ》間々には越中めが、世間話をしてくれたっけ。わしはすっかり[#「すっかり」に傍点]吃驚《びっくり》してしまった。ひどく浮世はセチ辛いそうだな。町人や百姓や武士までが、わしを怨んでいるそうだな。うん、越中めがそういってたよ。わしは最初は疑がったが、しかししまいには信じてしまった。そこでおれは決心したよ。これまでおれを盲目《めくら》あつかい[#「あつかい」に傍点]にした、悪い家来めを遠ざけて、越中を代わりに据えようとな。……で、ともかくもそんな塩梅《あんばい》で、今朝までおれは越中の屋敷で、暮らしていたというものさ。その今朝越中がこんなことをいった。『結社は退治られてしまいました。もはや安全でございます。お城へお帰り遊ばしませ』そこでまたもや駕籠へ乗り、以前の道を帰って来たのさ……。さあ改革だ! 建て直しだ。いい政事《まつりごと》をしなけりゃならない」
 だが不幸にも家治将軍は、その後間もなく逝去《せいきょ》した。田沼主殿頭が薬師《くすし》をして、毒を盛らせたということであるが、真相は今にわからない。
 しかし家治の遺志なるものは、幸い実行することが出来た。家治の死後電光石火に、幕府の改革が行われ、田沼主殿頭は失脚し、大封を削られて一万石の、小大名の身分に落とされてしまった。代わって出たのが松平越中守で、老中筆頭の位置に坐り、寛政の治を行うことになった。

 青葉の季節が訪ずれて来た。
 半太夫茶屋の四畳半で、愉快な媾曳《あいびき》が行われていた。
 弓之助とお色との媾曳《あいびき》であった。
「おいお色、おい女丈夫、お前は命の恩人だぜ」
「そう思ったら邪魔にせずに、精々《せいぜい》これから可愛がるといいわ」
「あの時お前が来なかろうものなら、女勘助っていう奴に、おれはそれこそ殺されたかもしれねえ」
「ご身分を宣《なの》ればよござんしたに」
「莫迦め、そんなことは出来るものか、がんじ[#「がんじ」に傍点]搦《がら》みにされたんだからなあ。おめおめ生け捕りにされた身で、名前や素姓が明されるものか」
「ほんとにそれはそうですわねえ」お色は胸に落ちたらしい。
 金魚売りの声が表を通った。燕のさえずりが空で聞こえた。
「六人の奴らどうしたかな?」
 ふと弓之助は壊しそうにいった。「江戸にはいないということだが」
「泥棒なんて厭ですわねえ」お色は眉間へ皺を寄せた。
「それもご治世が悪かったからさ。人間いよいよ食えなくなると、どんな事でもやるものだからな」
 ちょっと弓之助は感慨に耽った。
「ご治世は変わったじゃあありませんか。越中守様がお乗り出しになり」
「有難いことには変わったね。これから暮らしよくなるだろう。ところでどうだいお前の心は」
「何がさ?」
 とお色は怪訝《けげん》そうに訊いた。
「変わったかよ? 変わらないかよ?」
「そうねえ」
 とお色は物憂そうにいった。「あなた、お役附きになったんでしょう?」
「越中守様のお引き立てでね」
「権式張らなければいけないわねえ」
「へえ、そうかな、どうしてだい?」
「お役人様じゃあありませんか」
「ほほうお役人というものは、権式張らなけりゃあいけないのかえ」
「みんな威張るじゃあありませんか」
「よし来た、それじゃあおれも威張ろう」
「では、妾《わたし》はさようならよ」
「おっと、おっと、どういう訳だ?」
「妾威張る人嫌いだからよ」
「俺が」と弓之助はゴロリと左寝の肘を後脳へ宛《あ》てた。「威張れるような人間なら、もっと早く役附いていたよ」
「どうしてでしょう? 解らないわ」
「一方で威張る人間は、それ一方では諂《へつら》うからさ」
「ああそうね、それはそうだわ」
「おれの何より有難いのは、生地《きじ》で仕えられるということさ。越中守様の下でなら、お太鼓を叩く必要もなければ怒ってばかりいる必要もない。楽に呼吸《いき》を吐けるというものさ」
 この意味はお色にはわからなかった。
「お色、久しぶりで何か弾けよ」
「ええ」といって三味線を取った。「あら厭だ糸が切れたわ」
「三の糸だろう、薄情の証拠だ」
「お気の毒さま、一の糸よ」
「それじゃあいよいよ嬶《かかあ》になれる」
「ゾッとするわ! 田沼の爺《じじい》!」
「何さ、田沼のその位置へ、俺が坐ろうというやつ[#「やつ」に傍点]よ」
「まあ」といって三味線を置いた。
「大して嬉しくもなさそうだな」
「瞞《だま》すと妾狂人《きちがい》になるわ!」
 二人はそこで寄り添おうとした。有難い事には野暮天《やぼてん》ではなかった。寄り添う代わりに坐り直した。と、お色がスッと立った。裏の障子を引き開けた。眼の前に隅田が流れていた。行き交う船! 夕焼け水!
「ああ私にはあの水が……」湯のようだと彼女はいおうとした。だがそういわなかった。「ああまるで火のようだわ」こう彼女はいったものである。
 間もなく季節は真夏に入ろう。恋だって火のように燃えるだろう。だがその次には秋が来よう。結構ではないか実を結ぶ季節だ。

 京師殿とは何者であろう? 結局疑問の人物であった。あの有名な天一坊事件、その張本の山内伊賀介、その後身ではあるまいか? 非常な学者だというところから、特に助命して大岡家に預け、幕府執政の機関とし、捨扶持《すてぶち》をくれていたのかもしれない。伊賀介の元の主人といえば、京師の公卿の九条殿であった。




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