国枝史郎「血ぬられた懐刀」(15) (ちぬられたかいとう)

国枝史郎「血ぬられた懐刀」(15)

能弁の幸蔵主

 しばらく幸蔵主は秀次の顔を、まじろぎ[#「まじろぎ」に傍点]もせずに見ていたが、いかにもいたわしさ[#「いたわしさ」に傍点]に堪えないように、いたわる[#「いたわる」に傍点]ように話しかけた。
「妾《わたし》が聚楽《じゅらく》へ参りましてこの方、繰返し繰返し申しましたが、まだご決心が付きませぬそうな。よくないことでござりますよ。早うご決心をなさりませ。伏見へおでかけなさりませ。そうしてご弁解なさりませ。太閤殿下と貴郎《あなた》様とは、血縁の伯父姪[#「姪」はママ]ではございませぬか。親しくお二人がお逢いなされて、穏かにお話をなさいましたら、疑いは自然と解けましょう。ご謀反を巧まれたというのではなし、ただ少しご身分柄として、ご醉興の程度が過ぎるという、それだけのお咎めではござりませぬか。恐ろしいことなどはござりませぬ。何の何の恐ろしいことなどが。……本来このような場合には、伏見からお呼びのない前に、貴郎様から参られて、お咎めの故以《いわれ》のないということを、お申しひらきなさるのが、本当なのでござりますよ。しかるに今回はあべこべ[#「あべこべ」に傍点]となって、伏見から参れとのご諚があっても、貴郎様には参られようともなされぬ。これではいかな太閤様でも、ご立腹なされるでござりましょう。と、……云いましても今のところでは、太閤様のご立腹とて、大したものではござりませぬ。お逢いしてお詫びをなされましたら、直ぐにも融けるでござりましょう。決してご心配には及びませぬ。が、只今の機会を逃がして、伏見へおでかけなされぬようなら、それこそ一大事になりましょう。あの治部《ちぶ》様や長盛《ながもり》様が、あの巧弁で讒言などして、太閤様のご聡明を、眩まさないものでもござりませぬ。そうして貴郎様のお嫌いの、淀様などがそこへつけ込み、姦策を巡らさないものでもなく、何やら彼やらの中傷が入って、今度こそ本当に太閤様のお心持が貴郎様から離れて、貴郎様をお憎みなされようも知れぬ。が、是非ともこの機会に、伏見へおいでなさりませ。……あるいは貴郎様におかれましては、秀頼公《ひでよりぎみ》に太閤様が、豊臣の筋目や関白職を、お譲りなさろうと覚し召して、それで貴郎様を伏見へ呼び寄せ、殺すのではあるまいかと、ご懸念遊ばすかも知れませぬが、何の何の太閤様が、そのようなお腹の小さいことを、どうしてお企てなさりましょう。そのご心配には及びませぬよ……」
 と、ここまで云って来て幸蔵主は、繊細微妙な笑い方をしたが、
「お疑いさえ晴れましたら、貴郎様には直ぐにもご帰洛、ここ聚楽第の主として、いぜんとして一ノ人関白職、どのような栄華にでも耽けられます」
 この言葉が何よりも秀次の心を、強く烈しく打ったようであった。
「幸蔵主の姥!」とじっと[#「じっと」に傍点]なったが、
「伏見へ参ってお詫びさえしたら、俺は聚楽へ帰られようかな? 現在の位置に居られようかな?」
「妾をお信じなさりませ。孫七郎様の昔から、膝へ掻き上げてご介抱をした、この幸蔵主ではござりませぬか。今はお偉い関白様でも、妾の眼から見ますれば、可愛らしい和兒《わこ》様でござります。そういう可愛らしい和兒様に何で嘘など申しましょう」
「行こう行こう、伏見へ行こう!」
 子供のように他愛なく、こう秀次は甘えるように云った。
「俺にもお前は懐かしい。母者人《ははじゃびと》のような気持がする。俺はお前の云う通りになろう」
「ようご決心なされました」
「伏見へ行こう! 明日にも行こう」
 秀次は決心をしたのである。
 と、幸蔵主の眼の中へ、憐愍の情がチラツイたが、直ぐにさり[#「さり」に傍点]気なく消してしまった。
 二人はしばらく無言であった。
 と、聚楽第の一所から、人が斬られでもしたような、悲鳴が一声聞こえてきた。
 不意に立ち上った幸蔵主は、スルスルと、欄干の側《そば》へ行った。で、悲鳴のした方を見た。
 主殿《おもや》と廻廊でつながれている奇形な建物の方角から、どうやら悲鳴は聞こえたらしい。
 で、そっちへ眼をやったが、
「今夜はこれで三人斬られた。……それにしても奇形な建物は、何を入れて置く建物なのであろう?」




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