国枝史郎「血ぬられた懐刀」(17) (ちぬられたかいとう)

国枝史郎「血ぬられた懐刀」(17)

さながら人魚

 お紅の心は乱れていた。思い乱れているのである。今日一日の出来事が、夢かのように思われてならない。
 ――秀次公の使者として、不破小四郎がやって来たこと、聚楽第《じゅらくだい》へやるまいと北畠一家が、最初はげしく争ったこと、とうとう聚楽第へ連れて来られて、眼を奪うような華やかさと、胆を冷すに足るような、荒淫な夜遊にぶつかったこと、秀次が自分を抱えたこと、それに対して抗ったこと、でもズルズルと引きずられたこと、その時懐刀の落ちたこと……最後に気絶をしたことなど……
「ここはどういう部屋なのであろう?」
 お紅は四辺《あたり》を見廻して見た。
 いつか老婆は立ち去ったと見えて部屋には誰もいなかった。
「まるで異国へでも来たようだよ」
 見る物が驚きの種であった。
「正気づいた時にはこの部屋にいた。変なお婆さんが何か云った。一言も妾《わたし》には解《わか》らなかった」
 お紅は空腹を感じて来た。人が気絶から醒めた時には、空腹を感じるものである。
「妾に下された食物なのであろう。では妾は遠慮なく食べよう」
 で、お紅は手を延ばして、順々に食物を食べて行った。
「ああ妾は咽喉《のど》が乾いた。水注の水を飲むことにしよう」
 で、咽喉を潤《うる》おした。
 しかしお紅は知らなかった。それらの食物や水の中に、愛慾をそそる××質が――麝香《じゃこう》とか、芫花《けんか》とか、禹余糧《うよりょう》とか陽起石《ようきせき》とか、狗背《くはい》とか、馬兜鈴《ばとれい》とか、漏蘆《ろろ》などというそういう××質が、雑ぜられてあるということを。
 ただお紅は飲食をしたため、にわかに体が活々となり、元気づいて来たということと、恍惚《うっとり》とした甘い気持が、心に湧いたということを、感ずることが出来たまでであった。
「体が汗にぬれている。妾は風呂へ入ることにしよう」
 で、お紅は立ち上ったが、念のために部屋の中を見廻してみた。
 が、誰も見ていない。
 で、そろそろと帯を解いて。一枚々々衣装を脱ぐ、花の蕾が萼から花弁と、――一枚々々、一枚々々と――だんだんほぐれて行くようである。
 と、雌蕊が現われた。処女の肉体が一糸も纏わず、白く艶々とむき出されたのである。
 余りに清浄であるがために、たとえ誰かが見ていたとしても、何らの邪心さえ起こさなかったであろう。そんなにもお紅の裸体の姿は、清らかで美しいものであった。そうしてお紅のその裸身が、呂宋《ルソン》織りの垂布《タピー》を左右にひらいて、浴槽の部屋へ消えた後には、脱ぎ捨られた紅紫の衣装が、散った花のように残されていた。
 そうしてその頃にはお紅の裸身は、浴槽の中に埋もれていた。例えることが許されるなら、浴槽の中の緑色の湯は、紺碧をなした潮であり、それに埋もれている裸体のお紅は、若い美しい人魚でもあろうか?
 まさしく人魚に相違なかった。乳房から上を、潮から乗り出し、肩の上へ黒髪を懸けいている。快く閉ざした眼の瞼の、上気して薄紅く艶めかしいことは! ポッカリと唇を無心にあけて、前歯の一部分を現わしている。それがやはり艶かしい。
 と、お紅は立ち上ったが、浴槽を出ると蹣跚《よろめ》くように、香水管の下まで行って、起立したまま静まった。裸体から滴がしたたり落ちる。裸体を香水の霧が蔽う。斑《ふ》のない大理石の彫像を、繭から出たばかりの生絹が、眼にも入らない細さをもって、十重に二十重に引っ包み、暈しているのではあるまいかと、そんなようにも見え做される。
 だがお紅は知らなかった。浴槽の緑の湯の中に、熏陸《くんりく》、烏薬《うやく》、水銀郎《すいぎんろう》等の、××質が入れてあったことを。
 そうしてさらに知らなかった。管から吹き出している香水の中に、馬牙硝《ばがしょう》、大腹子《たいふくし》、杜仲《とちゅう》などの、同じく××的香料が、まぜられてあったということを。
 いつまでもお紅は陶然として、香水の霧に巻かれている。
 しかしそれから体を拭って、垂布をくぐって前房へ出て、そうしていぜんとして一糸も纏わず、バタビヤ織りの垂布をひらいて、寝部屋の中へよろめき込み、寝台へ体を横仆えて、桃色の薄布を一枚だけ懸けて、ウトウトと眠りに入った頃から、身内の血潮が騒ぎ立ち、…………、…………、追っかけ追っかけ上ぼって行くのを、堪えることが出来なかった。




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