国枝史郎「血ぬられた懐刀」(19) (ちぬられたかいとう)

国枝史郎「血ぬられた懐刀」(19)

光消えぬ矣簒奪星

 と、扉の向こう側から、老婆の声が聞こえてきた。
「四塚の姥はこの妾《わたし》で。……何かご用でもござりますかな?」
 嘲笑っているような声である。
「俺《わし》はな、小四郎だ、不破小四郎だ」
「お声で大概判《わか》りますよ。小四郎様でござりましょうとも」
 嘲笑っているような声である。
「姥か、お願いだ、扉をあけてくれ」
 するといよいよ嘲笑いの声を、四塚の姥は扉の中で立てたが、
「これはこれは何を有仰《おっしゃ》るやら、聚楽第《じゅらくだい》のお侍でありながら、聚楽第の掟をご存知ないそうな。この密房は男禁制、開けることではござりませぬよ」
「何を、莫迦な、そんなことぐらい、この小四郎が知らないものか。知っていればこそ頼むのだ。是非この扉をあけてくれ。そうしてお紅に逢わせてくれ。……お紅という娘はいるだろうな?」
「ハイハイおいででござりますよ。今頃はねんね[#「ねんね」に傍点]でござりましょう。いいご機嫌でな。夢中でな」
「お紅は俺の女なのだよ。それを殿下が横取ったのだよ。いやいや横取ろうとしているのだよ。で、この密房へ入れたのさ。……だがお紅は俺のものだ。渡してくれ、渡してくれ!」
 懇願的の声となった。
「あの娘は本当に美《い》い女だ。聚楽中にもないくらいだ。で、ご愛妾の一人が死んだ。お前も知って居る京極のお方だ。今日まで殿下のご寵愛を、一人占めにして占めていられた方だ、そのお方が懐刀で自害された。お紅の懐中《ふところ》から転び出た刀で、まるでお紅が殺したようなものだ。いや事実殺したのだ。お紅を嫉妬して死んだのだからな。お紅がご愛妾になろうものなら、寵愛を失うと思ったからさ。……そんなにも綺麗なお紅なのだ。俺だって恋しく思うではないか。頼む、あけてくれ、扉をあけてくれ!」
 更にそれから誘惑するように。
「が、勿論頼むには、頼むだけのことはするつもりだ……殿下から拝領の生絹をやろう、殿下から拝領の羅紗布をやろう、殿下から拝領の紋唐革をやろう。もしお前が欲しいというなら、刺繍した黒天鵞※[#「糸+戊」、515-下-18]《ビロード》をくれてやる。黄金をやろう、背負いきれないほどの黄金を!」
 どうやら最後のこの言葉は、四塚の姥をまどわした[#「まどわした」に傍点]らしい。
 しばらくの間は黙っていたが、諂うように声をかけた。
「黄金を下さると有仰るので?」
「やるよやるよ、背負いきれないほどやるよ」
「まあまあ左様でござりますか、考えることにいたしましょう。妾はすっかり老い枯ちて居ります。この女部屋の宰領役さえ、わずらわしいものになりました。どうぞ閑静な土地へ参って、安楽なくらし[#「くらし」に傍点]をいたしたいもので。それにはお宝が入用《い》りますので。……貴郎《あなた》様がそれを下さるという。有難いことでござりますよ。ではこの扉をあけましょう。ご自身にお入りなさりませ。ご自身に寝部屋へ参られませ」
 すぐにカチカチと音がした。どうやら錠でもあけるらしい。
「有難い有難い礼を云うぞ。そうしたら俺はお紅を連れ出し、遠く他国へ行くことにしよう。そうしてそこで一緒に住む」
 やがてギーという音がした。
 と、扉が一方へあいて、先刻《さっき》方お紅の部屋に在って、お紅に因果を含めていた、老婆が顔をつき出した。すなわち四塚の姥である。
「お入りなされ」
「もう占《し》めたぞ!」
 だがその時どうしたのであろうか、四塚の姥は、
「あッ」と云ったが、ビ――ンと扉をとじてしまった。
 主殿《おもや》とつながれている廻廊を、一つの人影が辷るように、こっちに近寄って来たからである。
「小四郎!」
「おッ、ご宿老様!」
「不忠者!」
 か――ッと一太刀!
 悲鳴が起こって骸が斃れた。
 幸蔵主《こうぞうす》が樓上で耳にしたのは、この小四郎の悲鳴なのであった。
「四塚の姥! 扉をあけろ。……うむ、開けたか、顔を出せ。……お紅という娘が居るはずだ。丁寧にあつかって連れて参れ」
「かしこまりましてござります」
 密房の扉があけられている。
 砂金色の燈火《ともしび》が隙から射して、廊下を明るく照らしている。
 血刀を下げて突っ立っているのは、宿老の木村常陸介であった。
 足許に死骸が転がっている。一刀で仕止められた小四郎の死骸で、肩から胸まで割られている。
 切口から流れた血が溜まって、廊下へ深紅の敷物でも、一枚厚く敷いたようであった。
「聚楽の乱脈はこの有様だ。とうてい長い生命《いのち》ではあるまい。……頼むは五右衛門ばかりだが……」
 懐紙で血刀をゆるゆるとぬぐい、鞘へ納めた木村常陸介は、廻廊の欄干へ体をもたせ、奥庭の木立の頂き越しに、伏見の方の空を見た。
「これは不可《いけ》ない、仕損じたらしい」
 公孫樹《いちょう》の大木の真上にあたって、五帝星座がかかっていて、玄中星が輝いていたが、一ツの簒奪星が流星となって、玄中星を横切ろうとした。
 が、そこまで届かないうちに、消えてなくなってしまったからである。
「可哀そうに五右衛門は捕らえられたらしい」




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