国枝史郎「血ぬられた懐刀」(20) (ちぬられたかいとう)

国枝史郎「血ぬられた懐刀」(20)

一年後の花園の森

 こうして一年の日が経った。
 その間に起こった事件といえば、聚楽第の主人の秀次が、高野山で自害をしたことであろう。
 木村常陸介をはじめとして、家臣妻妾が死んだことであろう。
 石川五右衛門が四條河原で、釜茄にされたことであろう。
 で、春が巡って来た。花園の森には松の花が咲き、桜の花が散り出した。そうして、麦の畑では、鶉《うずら》[#「鶉」は底本では「鵜」]がヒヒ啼きを立てはじめた。
 そういう花園の森の中に、三人の男女が坐っていた。香具師《こうぐし》姿の男女である。一人はその名を梶右衛門と云って、六十を過ごした老人であり、一人はその名を梶太郎と云って、その老人の子であった。二十三歳の若者である。そうしてもう一人は萩野であった。香具師姿の萩野であった。
「若い者同志は若い者同志、話をするのが面白かろう。どれどれ俺は見廻って来よう。……奴らあんまり騒ぎ過ぎるて」
 森の奥に大勢の仲間がいて、陽気にはしゃいで[#「はしゃいで」に傍点]いると見えて賑かな喋舌《しゃべ》り声が聞こえていたが、梶右衛門親方は腰をあげると、元気よくそっちへ歩いて行った。
 で、軟かい草を敷いて、ここの境地へ残ったのは、梶太郎と萩野と二人だけであった。
 昼の日が森へ差し込んでいる。その日に照らされた梶太郎の顔は、流浪の人種の若者などとは、どんなことをしても思われないほどに、上品でもあれば純情でもあった。しかし種族は争われないで、情熱的なところがあった。
 じっと萩野を見守っている。烈しい恋の感情が、眼にも口にも漂っている。
 梶太郎は事実燃えるがようにも、萩野を恋しているのであった。そうして幾度か打ち明けもした。しかし萩野はそれに対して、ハッキリした返事をしなかった。と云って萩野は衷心において、梶太郎を嫌っていないばかりか、仄かながらも愛していた。とは云えそれよりも一層烈しく、萩野は秋安に恋していた。未練を残していたのである。そうして過ぐる日その本心を、とうとう梶太郎の耳へ入れた。どんなに梶太郎の失望したことか! これが普通の香具師の、兇暴な若者であったならば、自暴自棄の感情の下に、萩野に対して暴力を揮うか、ないしは秋安を殺そうとして、付け狙って姦策を巡らしたであろう。しかし梶太郎は、反対であった。自分の恋を抑え付けて、萩野を故郷へ送り届けて、秋安の手へ渡そうとした。ちょうどその頃香具師の群は、丹波の亀山に居たところから、そこを引き払って一年ぶりに、この京の地へ来たのである。
 この花園の森の近くに、秋安の邸はあるのだという。そうして日が暮れて夜が来た時、萩野は香具師の群から別れて、秋安の邸へ行くのだという。――では二人での話し合いは、今が最後と見做さなければならない。
 どんなに梶太郎の心持が、暗くて寂しくて悲しいか、云い現わすことさえ出来なかった。
 しかし萩野の心持も、同じように寂しく悲しかった。一年前の月の夜に、この森で首をくくろうとして、野宿をしていた梶右衛門のために、あぶないところを助けられて以来《このかた》、香具師の群の中へ投じて、諸々方々を流浪したが、その間にどれほど梶太郎のために、愛されいたわられ[#「いたわられ」に傍点]大事がられたことか。云い尽くせないものがあった。その人と別れなければならないのである。同じように寂しく悲しかった。
 二人はいつ迄も動かない。
 ところで萩野の心の中には、さらに別の不安があった。
「秋安様には薄情な妾《わたし》を、お許しなすって下さるかしら?――そうしていまだにこの妾を、昔どおりに愛して下さるかしら?」――と云うのが萩野の不安なのであった。
 しかるに萩野のそういう不安は、全然別途の趣の下に、以外に解決が付けられることになった。




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