国枝史郎「血ぬられた懐刀」(03) (ちぬられたかいとう)

国枝史郎「血ぬられた懐刀」(03)

闇の中の声

「秋安様の予言どおりに、妾《わたし》は小四郎様にあざむかれた」
 さも後悔に堪えないように、声に出して女は呟いたが、他ならぬ娘の萩野であった。
 今宵も忍んで来るがよいと、こういう約束があったので、萩野は恋心をたかぶらせながら、聚楽第《じゅらくだい》の付近にある、小四郎の住居《すまい》まで行ったところ、小四郎はどうしたものであろうか、けんもほろろの挨拶をして、萩野を追い返してしまったのである。
「野に在る花は野にあるがよい。其方《そなた》はやっぱり野にある花だ。しかるに私《わし》は聚楽の家臣、地下の者とは身分が違う。何もお前を嫌うのではないが、これまでの縁はこれまでとして、其方は其方の昔にかえり、私は私の昔にかえろう。で、今後は私も行かぬ。其方も私を訪ねないがよい」
 こういう露骨の言葉をさえ、萩野は小四郎から貰ったのである。
 ことの意外に驚きながらも、どうすることも出来なかった。しかしどうしてそうもにわかに、小四郎の心が変わったのか、萩野には見当が付かなかった。
 で、それだけでも聞きだそうと思って、小四郎の袖を抑えた時、潜戸《くぐりど》が内からとざされた。で、聞くことさえ出来なかった。
 で、そのまま婢女《はしため》を連れて、しおしおと家へ帰ったのであったが、悲しさと口惜しさと怒りとで、眠ることなど出来そうもない。
 で、フラフラと家を出て、近くの花園の森へまで、来るともなしに来たのであった。
 萩野は松の木へ額をあて、じっと物思いに沈んでいる。
 木洩れの月光が森の中へ、薄蒼い縞を投げている。それに照らされた萩野の肩の、寂しそうなことと云うものは!
 と、その肩が顫え出した。すすり泣いている証拠である。
「小四郎様と比較《ひきくらべ》て、秋安様の親切だったことは! そういうお方を振りすてて、小四郎様へ気を向けたのは、妾《わたし》の愚かというよりも、魔が射したものと思わなければならない。そのあげくに[#「あげくに」に傍点]妾は捨られたのだ。誰にも逢わす顔がない。ましてや今さらオメオメと、秋安様とは逢うことは出来ない。ちょっとした心の迷いから、二つの恋を失ってしまった」
 限りない絶望と悔恨とが、今や萩野をとらえたのである。
「ああこの森で秋安様と、幾度媾曳《あいびき》をしたことやら。そのつど何と秋安様が、妾を愛撫して下すったことやら。思い出の多い花園の森! 一本の木にも一つの石にも、忘れられない思い出がある」
 フラフラと萩野は歩き出した。
「ああここに杉の木がある」
 一本の杉の木へ手を触れたが、しずかに幹を撫で廻した。
「この木の幹に背をもたせかけて、はじめて秋安様がこの妾へ、恋心をお打ち明け下されたのは、一年前の今頃であった。あの時妾はまあどんなに、嬉しくも恥しくも思ったことか。『妾は幸福でござります。妾も貴郎《あなた》様をお愛しします』と、茫《ぼっ》とした声でお答えしたはずだ」
 一本の桜の老木があった。木洩れの月光に浮き出して、満開の花が綿のように、森の天井を染めている。
 その桜の木へ障《さ》わったが、萩野は幹へ額をあてた。
「この桜の花の下で、行末のことを語り合い、あのお方の熱い唇を、はじめて額へ受けたことがある。昨日《きのう》のように思われるが、やはり一年の昔だった」
 松の巨木が聳えている、幹に月光が斑を置いていた。
 その幹へ萩野は寄りかかったが、袂で顔を蔽うようにした。にわかに体が縮《ちぢ》まったのは、根元へうずくまったからであろう。しばらくの間は身動きもしない。何かを思い詰めているらしい。ただ肩ばかりが顫えている。いぜんとして泣いているからであろう。
 やがて心を定めたかのように、萩野はゆるゆると立ち上ったが、腰の辺りを探り出した。
 と、紐がクルクルと解けた。
 仰ぐように顔を上向けて、松の下枝へ眼をやったが、片手を上げて紐を投げた。
 松の枝へかかって下った紐を、両手で握って引いたのは、縊《くび》れて死のうとするのでもあろう。
 縊れて死のうとしたのであった。
 しかし紐の端へ頤をかけた時に、背後《うしろ》から二本の腕が出て、萩野の肩を引っかかえた。
「ひとつ御相談にのりましょう。短気はおやめなさりませ。死ぬほどの事情がありましても、生きられる事情にもなりますもので。ひとつ御相談に乗りましょう。私にお任《まか》せなさりませ」
 つづいてこういう声がしたが、優しい老人の声であった。




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