国枝史郎「血ぬられた懐刀」(21) (ちぬられたかいとう)

国枝史郎「血ぬられた懐刀」(21)

ああ二組の幸福の夫婦

 数人の男女の話し声が、森の一方から聞こえてきたが、次第にこっちへ近寄って来て、間もなく姿を現わした。一人は北畠秋安で引き添うようにして美しい婦人が、――それは他ならぬお紅であったが、侍女を従えて歩いて来た。二人はどう見ても夫婦であった。そうして事実夫婦なのであった。その証拠さえそこにある、侍女が嬰兒《うぶこ》を大切そうに、胸の辺りに抱いている。
 話しながらゆるゆると歩いて来る。
「今年も松の花が咲くようになった。思い出の多い松の花だ。この森にも思い出が多い。……あれからあの女はどうしたことやら」
 感慨にたえないというように、秋安はしめやかに呟いたが、
「どこぞで幸福にくらして居ればよいが」
「萩野様のことでございますか?」
 こうお紅は訊き返したが、
「もうどうやら貴郎《あなた》様には、怨みも憎しみもなくなられたようで」
「今では幸福をいのるばかりだ。……これもお前のお蔭なのだよ」
「まあまあ何故でござりましょう?」
「お前が俺と一緒になって、俺を幸福にしてくれたからだ」
「もう愛しても居りませぬので?」
「愛するものはお前ばかりだ」
「いいえ、そうしてこの秋秀も」
 こう云ってお紅は笑《え》ましそうに、嬰兒の方へ顔を向けた。
「可愛い坊や、可愛い坊や……妾は幸福でござりますよ」
「自分で幸福でいる時には、他人の幸福も願うものだよ。……萩野が幸福であるように」
「可愛らしい香具師さんが居りますのね」
 こう云ってお紅が足を止めたので、秋安もふと足を止めた。
 そうして萩野へ眼をやったが、萩野はその前から、深く俯向いていたがために、秋安には顔が見られなかった。そうして姿は香具師風である。萩野であることが何で判《わか》ろう。で、ゆるゆると行き過ぎた。
 が、お紅は気安そうに、二人の香具師の前まで行った。
「お怒りなすっては困ります。私達は幸福なのでございます。どうぞ貴郎《あなた》方ご夫婦にも、祝っていただきたいと存じます。粗末な物ではござりますが、私達の志でござります。お受け取りなすって下さいまし」
 云い云いお紅は簪を抜いたが、萩野の前へそっ[#「そっ」に傍点]と出した。
「はい、有難う存じます」
 顔を上げた萩野の眼の中に、あふれる涙が光っていた。
「お美しい貴郎様のお志、いつ迄も忘れはいたしませぬ。……幸福におくらし遊ばすよう、おいのり致すでござりましょう」
「貴郎方ご夫婦もお幸福に……」
 施しを快く受けられたので、お紅は喜悦を感じたらしい。ちょっと会釈すると身をひるがえして、行き過ぎた秋安の後を追って灌木の裾を向こうへ廻った。
 と、じいいっとその後を、萩野は涙の眼で見送ったが、突然梶太郎の膝の上へ、しっかりと、顔を押しあてた。
「ねえ行きましょうよ、遠い他国へ、流浪しましょうよ、二人で一緒に!」
 そうして烈しく咽び泣いた。
「…………」
 茫然とした若者の梶太郎には、何故そうもにわかに萩野の心が、一変したかが解《わか》らなかった。それは実際解らなかったが、一緒に流浪をしようという、萩野の心は嬉しかった。嬉しい以上に有難かった。
「萩野さん、私はお礼を云うよ。ああ行こう、一緒に行こう。……そうしてお前さんは私のものだ」
「貴郎のものでございますとも! ただ今の若い美しいお方も、祝福をして下さいました。……私達二人を! 夫婦と見做して!」
「私の妻だ!」と抱きかかえた。その梶太郎に抱かれたままで、萩野はうっとり[#「うっとり」に傍点]と呟いた。
「あの人達は京都《みやこ》に住む! 賑やかな明るい派手やかな京都に! そうしてそこでお暮らしになる。幸福に、幸福に、幸福に! ……でも私達は林や野や、小さい駅《うまやじ》や宿《しゅく》で住む! でもちっとも違いはない。幸福にさえ暮らそうとしたら……きっと幸福にくらすことが出来る!」
「わし[#「わし」に傍点]は今でも幸福だよ、たった今私《わし》は幸福になった。……しかし、お前には、秋安というお方が……」
「何にも有仰《おっしゃ》って下さいますな。……もう逢ったのでございます。……逢ったも同じなのでございます……」
 拭くに由無い満眼の涙! 萩野の眼頭から流れ出たが、頬を伝わって頤まで来た。昔の恋を思い断って、新しい恋に生きようとする、悲しみと喜びの涙なのである。
 花園の森は昼の日に明るく、草木と人とを照らしている。その中で桜花が蒸されている。
 が、間もなく森の中から、十数人の香具師達が、流浪の人に特有の、軽快な自由な足どりで、笑いさざめきながら現われた。
 近江をさして行くらしい。
 その先頭に歩いて行くのは、新婿新妻を想わせるところの、梶太郎とそうして萩野であった。
 肩と肩とを寄せ合って、つつましやかに歩いて行く。
 野には陽炎、小鳥の声々! そうして行手にあるものは、新しい恋と生活とである。




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