国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(01) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(01)

    腰の物拝見

「お武家お待ち」
 という声が聞こえたので、伊東頼母《たのも》は足を止めた。ここは甲州街道の府中から、一里ほど離れた野原で、天保××年三月十六日の月が、朧《おぼ》ろに照らしていた。頼母は、江戸へ行くつもりで、街道筋を辿《たど》って来たのであったが、いつどこで道を間違えたものか、こんなところへ来てしまったのであった。声は林の中から来た。頼母はそっちへ眼をやった。林の中に、白い方形の物が釣ってあった。紙帳《しちょう》らしい。暗い林の中に、仄白く、紙帳が釣ってある様子は、巨大な炭壺の中に、豆腐でも置いたようであった。声は紙帳の中から来たようであった。
 塚原卜伝が武者修行の際、山野に野宿する時、紙帳を釣って寝たということなどを、頼母は聞いていたので、林に紙帳の釣ってあることについては、驚かなかったものの、突然、横柄な声で呼び止められたのには、驚きもし腹も立てた。それで黙っていた。すると、紙帳の裾が揺れ、すぐに一人の武士が、姿を現わした。武士の身長《たけ》が高いので、紙帳を背後《うしろ》にして立った形《すがた》は「中」という字に似ていた。
「お腰の物拝見出来ますまいかな」と、その武士は、頭巾で顔を包んだままで云った。
「黙らっしゃい」と頼母は、とうとう癇癪を破裂させて叫んだ。
「突然呼び止めるさえあるに、腰の物を見せろとは何んだ! 成らぬ!」
「そう仰せられずに、お見せくだされ。相当の物をお差しでござろう」
「黙れ! 無礼な奴、ははア、貴様、追い剥ぎだな。腰の物拝見などと申し、近寄り、懐中物を奪うつもりであろう。ぶった斬るぞ!」
「賊ではござらぬ。ちと必要あって腰の物拝見したいのじゃ。何をお差しかな。まさか天国《あまくに》はお差しではござるまいが」
「ナニ、天国? あッはッはッ、何を申す、馬鹿な。天国や天座《あまのざ》など、伝説中の人物、さような刀鍛冶など、存在したことござらぬ。鍛えた刀など、何んであろうぞ」
 すると武士は、頭巾の中で、錆《さび》のある、少し嗄《しわが》れた声で笑ったが、「貴殿も、天国不存在論者か。馬鹿者の一人か。まアよい、腰の物お見せなされ」と、近寄って来た。
 頼母は、傍若無人といおうか、自信ある行動といおうか、相手の武士が、無造作に、近寄って来る態度に圧せられ、思わず二、三歩退いたが、冠っていた編笠を刎ね退《の》け、刀の柄へ手をかけた。父の敵《かたき》を討つまでは、前髪も取らぬと誓い、それを実行している頼母は、この時二十一歳であったが、前髪を立てていた。当時の若衆形、沢村あやめ[#「あやめ」に傍点]に似ていると称された美貌は、月光の中で蒼褪めて見えた。
 武士は、頼母の前、一間ばかりの所で立ち止まったが、「まだお若いの。若い貴殿を蜘蛛《くも》の餌食《えじき》にするのも不愍、斬るのは止めといたすが、云い出したからには、腰の物は拝見いたさねばならず……眠らせて!」
「黙れ!」
 鍔音《つばおと》がした!
「はーッ」と頼母は、思わず呼吸《いき》を引いた。武士によって鳴らされた鍔音が、神魂に徹《とお》ったからであった。
 猛然と頭巾が逼って来た。頭巾の主の体が、怒濤のように殺到して来た。そうして次の瞬間には、頼母は、地上へ叩き付けられていた。体当たりを喰らったのである。
 俯向けに地に倒れた頼母は、(俺はここで死ぬのか。死んでは困る。俺は父の敵五味左門を討たなければならないのだから)と思った。
 そういう彼の眼に見えたものは、彼の両刀を調べている武士の姿であった。そうして、その武士の背後の地面から、瘤《こぶ》のように盛り上がっている古塚であった。その古塚は、数本の松と、一基の碑《いしぶみ》とを、頂きに持っていた。そうして……しかし、頼母の意識は朦朧《もうろう》となってしまった。



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