国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(03) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(03)

    古屋敷の古浪人

 乳母《ばあや》が雇って来た駕籠に乗り、頼母が、娘の家へ行ったのは、それから間もなくのことで、娘の家は、府中から一里ほど離れたところにあった。鋲打ちの門や土塀などに囲まれた、それは広大《ひろ》い屋敷であったが、いかにも古く、住人も少ないかして、森閑としていた。頼母は、古びた衝《つい》立ての置いてある玄関から、奥へ通された。
 さて、この日が暮れ、夜が更けた時、屋敷の一間から、話し声が聞こえて来た。
 畳も古く、襖も古く、広いが取り柄の客間に、一基の燭台が置いてあったが、その灯の下で、四人の武士が、酒を飲み飲み、雑談しているのであった。
「我輩は、ここへ逗留して三日になるが、主人《あるじ》薪左衛門殿の姿を見たことがない。気がかりともいえれば不都合ともいえるな」と云ったのは、頬に刀傷のある、三十五、六の、片岡という武士で、片手を枕にして、寝そべっていた。
「不都合とはどういう訳か」と、怪訝《けげん》そうに訊いたのは、それと向かい合って、片膝を立て、盃をチビチビ嘗めていた、山口という三十年輩の武士で、「只で泊めて貰い、朝酒、昼酒、晩酌まで振る舞われて、まだ不平なのか」
「そうではない。縁も由縁《ゆかり》もない我らを、このように歓待してくれながら、主人が顔を出さぬのは不都合……いや、解せぬというのじゃ」
「それは貴公、世間の噂を知らぬからじゃ」
 と云ったのは、膝の前にある皿の肴《さかな》を、なお未練らしくせせって[#「せせって」に傍点]いた、五十五、六の、頬髯を生やした、望月角右衛門という武士で、「世間の噂によれば、薪左衛門殿は、ここ数年来、誰にも逢わぬということじゃ」
 すると、二十五、六の、南京豆のような顔をした、小林紋太郎という武士が、「それは何故でございましょうかな? ご病気なので? それとも……」
「解らぬ」と、角右衛門が云った。「解らぬのじゃ。さよう、病気だとの噂もあれば、いつも不在じゃという噂もある」
「いよいよ変じゃ」と云ったのは、片岡という武士で、「そういう薪左衛門殿が、見ず知らずの浪人でも、訪《たず》ねて行きさえすれば、泊めてくれ、ご馳走をしてくれるとは……」
「よいではないか」と、角右衛門が、抑えるような手つき[#「つき」に傍点]をし、
「主人がどうあろうと、我らにとっては関《かま》わぬことじゃ。泊めてくれて、ご馳走してくれて、出立の際には草鞋《わらじ》銭までくれる。いやもう行き届いた待遇《もてなし》。それをただ我らは、受けておればよい。我らにとっては大旦那よ。主人の秘密など、剖《あば》かぬこと剖かぬこと」
「そうともそうとも」と合い槌を打ったのは、山口という武士で、「その日その日[#「その日その日」に傍点]を食いつなぐだけでも大わらわの我ら、他人の秘密事《ないしょごと》など、どうでもよかよか。いや全くこの頃の世間、世智辛くなったぞ。百姓や町人めら、なかなか我らの威嚇《おどし》や弁口に、乗らぬようになったからのう」
「以前《むかし》はよかった」と感慨深く云ったのは、例の望月角右衛門という武士で、「百姓も町人も、今ほど浪人慣れていず、威嚇などにも乗りやすく、よく金を出してくれたものよ。それに第一、浪人の気組が違っていた。今の田舎稼ぎの浪人など、自分の方からビクビクし、怖々《こわごわ》強請《ゆす》りかけているが、以前《むかし》の浪人とくると、抜き身の槍や薙刀を立て、十人十五人と塊《かた》まって、豪農だの、郷士だのの屋敷へ押しかけて行き、多額の金子《きんす》を、申し受けたものよ」





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