国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(05) (ちまんだらしちょうぶし)

国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」(05)

    血蜘蛛の紙帳

 それを聞くと、角右衛門は笑ったが、
「貴殿方は、どの親分のもとへ参らるる気かな。拙者は、松戸の五郎蔵殿のもとへ参るつもりじゃ。関東には鼻を突くほど、立派な親分衆がござるが、五郎蔵殿ほど、我々のような浪人者を、いたわってくださる仁はござらぬ」
「それも、五郎蔵殿が、武士あがりだからでございましょうよ」
 酔った頬を、夜風に嬲《なぶ》られる快さからか、四人の者は、雨戸の間《あい》に、目白のように押し並び、しばらくは雑談に耽ったが、やがて部屋の中へはいった。とたんに、
「やッ、腰の物が見えぬ!」と、角右衛門が、狼狽したように叫んだ。
 皿や小鉢や燗徳利の取り散らされてある座敷に突っ立ったまま、四人は、また顔を見合わせた。わずかな時間《あいだ》に、四人の刀が、四本ながら紛失しているではないか。
「盗まれたのじゃ」
「家の者を呼んで……」
「いやいやそれ前に、一応あたりを調べて……」と、年嵩《かさ》だけに、角右衛門は云い、燭台をひっさげると、次の間へ出た。次の間にも刀はなかった。その次の間へ行った。そこにも刀はなかった。そこを出ると廊下で、鉤の手に曲がっていた。その角にあたる向こう側の襖をあけるや、角右衛門は、
「おお、これは!」と云って、突っ立った。
 続いた三人の武士も、角右衛門の肩ごしに部屋の中を覗いたが、「おお、これは!」と、突っ立った。
 その部屋は十畳ほどの広さであったが、その中央《なかほど》に、紙帳《しちょう》が釣ってあり、燈火《ともしび》が、紙帳の中に引き込まれてあるかして、紙帳は、内側から橙黄色《だいだいいろ》に明るんで見え、一個《ひとつ》の人影が、その面《おもて》に、朦朧《もうろう》と映っていた。総髪で、髷を太く結んでいるらしい。鼻は高いらしい。全身は痩せているらしい。そういう武士が、刀を鑑定《み》ているらしく、刀身が、武士の膝の辺《あた》りから、斜めに眼の辺りへまで差し出されていた。――そういう人影が映っているのであった。それだけでも、四人の武士たちにとっては、意外のことだったのに、紙帳の面《おもて》に、あるいは蜒々《えんえん》と、あるいはベットリと、あるいは斑々と、または飛沫《しぶき》のように、何物か描かれてあった。その色の気味悪さというものは! 黒に似て黒でなく、褐色に似て褐色でなく、人間の血が、月日によって古びた色! それに相違なかった。描かれてある模様は? 少なくも毛筆《ふで》で描かれた物ではなかった。もし空想を許されるなら、何者か紙帳の中で屠腹《とふく》し、腸《はらわた》を掴み出し、投げ付けたのが紙帳へ中《あた》り、それが蜒《うね》り、それが飛び、瞬時にして描出したような模様であった。一所にベットリと、大きく、楕円形に、血痕が附いている。巨大な蜘蛛《くも》の胴体《どう》と見れば見られる。まずあそこへ、腸を叩き付けたのであろう。瞬間に腸が千切れ、四方へ開いた。蜘蛛の胴体から、脚のように、八本の線が延びているのがそれだ。蜘蛛の周囲を巡って、微細《こまか》い血痕が、霧のように飛び散っている。張り渡した蜘蛛の網と見れば見られる。ところどころに、耳ほどの形の血痕が附いている。網にかかって命を取られた、蝶や蝉の屍《なきがら》と見れば見られる。血描きの女郎蜘蛛! これが紙帳に現われている模様であった。では、その蜘蛛を背の辺りに負い、網の中ほどに坐っている紙帳の中の武士は、何んといったらよいだろう? 蜘蛛の網にかかって、命を取られる、不幸な犠牲というべきであろうか? それとも、その反対に、蜘蛛を使い、生物の命を取る、貪婪《どんらん》、残忍の、吸血鬼というべきであろうか? と、紙帳に映っていた武士の姿が崩れた。斜めに映っていた刀の影が消え、やがて鍔音がした。鞘に納めたらしい。横を向いていた武士の顔が、廊下に突っ立っている、四人の浪人の方へ向いた。
「鈍刀《なまくら》じゃ、四本とも悉《ことごと》く鈍刀じゃ。お返し申す」
 四本の刀が、すぐに、紙帳の裾から四人の方へ抛《ほう》り出された。この時まで息を呑み、唾を溜めて、紙帳を見詰めていた四人の浪人は、不覚にも狼狽した声をあげながら、刀へ飛びかかり、ひっ[#「ひっ」に傍点]掴み、腰へ差した。その時はじめて怒りが込み上げて来たらしく、
「これ、そこな武士、無礼といおうか、不埓《ふらち》といおうか、無断で我らの腰の物を持ち去るとは何事じゃ! 出て来い! 出て来て謝罪いたせ!」と、角右衛門が怒鳴った。
 すると、それに続いて、南京豆のような顔をした紋太郎が、
「出て来い! 出て来て謝罪いたせ!」と鸚鵡《おうむ》返しのように叫び、「それに何んぞや鈍刀とは! 我らの刀を鈍刀とは!」
「何者じゃ! 名を宣《なの》れ! 身分を明かせ!」
 とさらに角右衛門が怒鳴った。
 すると、紙帳の中の武士は、少し嗄《しわが》れた、錆《さび》のある声で、「拙者の名は、五味左門と申す、浪人じゃ。当家が浪人を厚遇いたすと聞き、昨夜遅く訪ねて参り、一泊いたしたものじゃ。疲労《つか》れていたがゆえに、この部屋へ早く寝た。しかるにさっきから、遠くの部屋から、賑やかな、面白そうな話し声が聞こえて来た。一眠りして、疲労《つかれ》の癒えた拙者、眼が冴えて眠れそうもない。会話《はなし》の仲間へはいり、暇を潰そうと声をしるべに尋ねて行ったところ、広い部屋へ出た。酒肴が出ておる。悪くないなと思ったぞ。が、見れば、四本の刀が投げ出してあり、刀の主らしい四人の者が、廊下に立って、夜景色を見ておる。長閑《のどか》の風景だったぞ。そこでわし[#「わし」に傍点]の心が変った。貴殿方と話す代りに、貴殿方の腰の物を拝見しようとな。悪気からではない。わし[#「わし」に傍点]の趣味《このみ》からじゃ。そこでわし[#「わし」に傍点]は貴殿方の腰の物をひとまとめにして持って参り、今までかかって鑑定いたした。さあ見てくれといわぬばかりに投げ出してあった刀、四本のうち一本ぐらい、筋の通った銘刀《もの》があるかと思ったところ、なかったぞ。フ、フ、フッ、揃いも揃って、関の数打ち物ばかりであったよ」




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